選挙が始まる
「先生、さよなら!」
「はい、さよなら」
天川は、手を上げて帰ってゆく子供たちを見送った。
子供たちの姿が見えなくなると、教室がわりになっていた部屋の片付けを始めた。
天川と千鶴は今、寺子屋の真似事をして生計を立てている。
二人とも学生のうちにこちらへ飛ばされてきた為、仕事をした経験が無かった。しかし逆を言えば、勉強は玄人のようなものである。
内容は、謂わゆる国語だった。この街には、まだ口語文の習慣が無い。作文の教材と言えば、韓愈や柳宗元はあっても、志賀直哉は無い。言葉のほうでは、不自然に綺麗な標準語を話す割には、文章は、いまだに口語と乖離している。天川にとって、この街の謎の一つだった。
大して難しいことをしてる訳ではない。そのうち行き詰まるだろう、と言うのが二人の予測である。しかし、かと言って別に生活の当てがある訳でもない。
「暦世くん、名瀬さん」
千鶴が呼ぶ声がする。天川は、二人がそれぞれ借りている家を繋ぐ、裏戸を通って千鶴の家の側の庭に入った。そのまま、縁側から屋内に入り、玄関で人を迎える
「どうも、殆ど初めましてですね」
そこに立っていた男は、何となく祝言の席で見覚えがあった。
「名瀬義男さん。村木さんの側近」
千鶴が小声で耳打ちする。
「取り敢えず、上がってください」
「それでは、お構いなく」
名瀬はそのまま部屋に上がり込んで来た。
「奥さん、これ、簡単なものですが」
「有り難うございます~」
千鶴は、名瀬から菓子折りを受けとると、台所へ行き、お茶を淹れる準備をしている天川をそこから追い出す。
「女の仕事だから」
「そんなことは」
「分かってるって、でも、ここは現代社会じゃないんだから、余計な波風たてないでよね」
女性にそう言われてしまうと、もう何も言えない。天川は机を挟んで名瀬の向かいに腰を下ろした。
「それで、今日はどう言ったご用件で?」
「いやあ、ね。もうお耳に入っているかもしれませんが、もうそろそろ新しい城長を決める入れ札があるでしょう?」
「いや、初耳です。そういったことには余り注意を寄せていませんので」
「ああ、左様ですか」
そこへ、千鶴が三人分の茶と茶菓子を盆に乗せてやってきた。千鶴も天川の隣に座ると、二人して茶を啜る。
「この街では、定期的に街の代表である城長を、入れ札、つまり選挙ですな。選挙で選んでいるのです。それでね、村木城長としても、まだやりかけの仕事もあるし、是非とも続けたいと仰っている訳ですよ」
名瀬は、茶も飲まずに話し続けた。
「それでね、是非とも、お二人に少し選挙を手伝って貰いたい訳です」
「そういうことですか」
天川は、さして興味も無さそうに答える。
「千鶴さんはどうします?」
すぐに、隣に座る千鶴へ話を向ける。
「私は、そう言ったことは任せておりますので」
夫を立てる妻を演じる千鶴は、にこにこ笑いながらそう答える。
天川が小さく悲鳴を上げた。こっそり千鶴が足をつねったのである。余計な波風は立てるな、という合図であった。
「まあ、すぐにお返事という訳にもいきませんでしょうから、今日はひとまず……」
「お待ちください」
天川は名瀬を引き留めた。
「さっきの菓子折り、一応なかを確認してもらえますか」
天川が小声で言うと、千鶴は小さく頷いて台所へ向かう。
「申し訳ありませんが、お断りいたします」
「……ほう、それはどうしてでしょう」
「どうしても何も、私としましては、そう言ったことに関わる気がありませんので」
天川がそう答えると、名瀬の方も、少し考える風を見せた。
「お金が入ってたんだけど……」
千鶴が天川にそう言うと、天川はその金を受け取って、そのまま名瀬に手渡した。
「村木城長には普段から大変お世話になっておりますから、再選されることを祈っておりますとだけお伝えください」
「そう、ですか……」
天川がそう答えると、名瀬も強いて要求するそぶりは見せなかった。
「それならそれで、構いません。即答されるくらいだから、決意もお堅いんでしょう」
名瀬は金を懐に入れると、出されていた茶を飲み干して、立ち上がった。
「それでは、今日はちょっと他に用事がありましてね」
そう言うと、名瀬はそそくさと出ていった。天川たちは一応の見送りを済ませると、部屋に戻った。
「普通はさ、異世界一世に応援演説とかさせたいんじゃないの? いやに早く諦めたね」
「元より私は関東人ですから、関西側の村木城長に味方する可能性は低い。となると、そもそも選挙にいっさい関わらないと言われれば、それで充分なのでしょう」
天川はそう答えながら、名瀬が手を着けなかった茶請けに手を伸ばした。
「あとそうだ、人前では敬語はやめてって言ったよね?」
「いや、まぁそれは……申し訳ない」
二人は、夫婦ということになっている。人前では呼び捨てるように、と天川には言っておいた筈なのだが。
「女性にため口を聞くのは、ちょっと抵抗がありまして……」
「早く慣れてね」
千鶴は苦笑しながら湯のみを片付け始めた。
「それで、いいの? 選挙に関わらないって言っちゃって。私はさ、そういう厄介ごとに関わらなくて済むならそれが一番だけど」
「私もまあ、そうです。政治には関わらないのが長生きの秘訣でしょうしね」
「それもそうね」
二人は、顔を見合わせて笑った。
次の日、天川は同じように教室の片付けをしていた所に、またしても来客があり、千鶴に呼ばれた。
「今度は君か」
玄関に立っていたのは、上州党党首の息子、右倉正徳である。
「おや、他にも来客があったようですね。名瀬さんかな」
図星である。天川は苦笑した。まだ十六歳のこの少年は、中々するどい。
「千鶴さん。折角だから、名瀬さんのお菓子だしてあげて」
「はいはい。ちょっと待っててね」
名瀬と異なり、右倉は少し知った仲だし、年下でもある。天川の態度も少し緩い。
「あ、苺大福だ」
千鶴の声が台所から聞こえる。
「昨日はあれに賄賂も入ってましてね」
「いくら入ってましたか? 八州党は倍だしますよ」
「いや、金は返しました」
そうですか、と言いながら、右倉は腰を下ろした。
「お茶、どうぞ」
千鶴が、お茶と苺大福を右倉の前の机に置いた。
「さて、話に入りましょうか。名瀬さんから話を聞いてるなら、もう大体ご存じでしょう。単刀直入に言いますと、今度の城長選挙で村木さんではなく我々の立てる候補を応援して欲しいんですよ」
右倉は淡々と話し始めた。
「いや、そのことなんですが、名瀬さんにも言いましたが、私たちは選挙に関わる気はありません」
「そうですか。まあ、無理強いは出来ません」
右倉は、苺大福を頬張り、茶で流し込む。
「ずいぶんあっさり引きますね」
「私も、ただの父のお使いで、そこまでこの選挙に熱心でもないですから」
天川と千鶴は拍子抜けする思いである。
「そう言えばさ、結局、選挙ってどんな感じなの?」
千鶴が不意に質問した。
「選挙って言ったって、色んな方式があるでしょ?」
「確かに、それは聞いてなかった」
天川がそう答えるのを見ると、右倉は湯呑みを置いた。
「そうですか、なら、説明しましょう。この街では四年に一度、城長選挙を行うことになっております。まあ、現城長の解任要求が出ることも珍しくないので、今回のように任期満了での選挙も珍しいですが」
右倉は解説を続ける。
「選挙、まあ入れ札と言うことも多いですが、とにかく、各郷党の党首に一票ずつ入れる権利があり、過半数で当選です」
「漢京市内には他にも民族居住区があるそうですが、どこも城長は選挙で選ばれるのですか」
「いえ、そうではありません。場所によってまちまちです。例えば、隣の朝鮮城では、新しい城長は前任者の指名で決まるそうですよ」
へえ、と天川は答える。
「日本城は昔から選挙で城長を選んでいるのですか」
「そのようです」
面白い事実であるように天川には思えた。この街は、百姓の街なのかもしれない。強い地縁意識もそうだし、この城長の選び方にしても、入れ札、と言うくらいだから、もとは百姓が村役人を選ぶ方式に由来するのかもしれない。
「確かに、そうかもしれません。この街で、大名の子孫とか、あるいは公家の子孫とか、そういう人は聞いたことがありません。もしそのような飛び抜けた名家があったら、日本城の城長は世襲制になっていたかもしれませんね」
天川の予測について、右倉も賛意を示した。
ともかく、この街では歴史的な経緯として、結果的に選挙が採用されているらしい。
「郷党の党首も選挙で選ばれてるの?」
今度は千鶴が質問した。
「いえ、規則で決まったような選び方はしませんね。商店の跡取りと同じです。店主が選びたい人物と、番頭や手代の仕えたい人物が何となく一致すれば、揉めることもなく決まる、という感じです」
要するに、郷党内部の有力者が非公式的に決めるということである。選挙権者がこう選ばれるなら、日本城の選挙も、民主的とは言えないかもしれない。
「各党、好きな人物の名前を勝手に書くことになっていますが、実質的には立候補制になっていますね、それから、記名投票です」
「つまり、どこの党が誰に入れたかばれる訳ですか」
「はい。それから話を戻しますと、例年、日本城の選挙は八州党の立てた候補と畿内党の候補の一騎討ちになることが多いですね。やはり、人口が多いこの二組が有力なんですよ。だから毎回、他の奥羽党とか鎮西党とかの連中をどれだけ取り込めるかで決まる訳です」
右倉はちらりと外を見やった。そろそろ帰りたい時間帯である。
「今回の選挙では、我々八州党は信州党の党首、中林忠洋さんを候補に立てる予定です。まあそのうち、直接口説きに会いに来られるでしょう」
「信州、ですか?」
「ええ、まぁ、実質的には例年通りの八州党政権ですよ。中林さん自体、八州党の後援で信州党の党首になったような方ですから」
湯呑みに残った最後の一口を飲み干すと、右倉は立ち上がった。
「それでは、天川さんを使いたかったらご自分で説得を、と中林さんに伝えておきますので」
帰り支度を始めた右倉を、天川も玄関まで見送ろうとする。
「ああそうだ」
靴を履きながら、右倉が言った。
「青山さんからの伝言ですがね、先日に出された離婚の申請ですが、あれ、無理だそうですよ。それでは」
それだけ言うと、右倉は帰っていった。