見合いの返事
ぴしゃりと音を立てて、勢いよく障子がひらかれた。
「天川くん、何事かね!」
驚いて、後ろを振り向いた村木の後ろを、天川は黙って通りすぎ、すぐ隣に腰を下ろした。
「村木城長、この結婚の話ですが、私はお受けできません」
村木は、仲人役としてこの場にいる。
天川と津川千鶴の二人の世話役である、青山と村木は、二人がいたすぐ隣の部屋で茶を飲みながら世間話をしていたのだった。
「天川くん、急な話でね、我々も悪いと思っているが、この見合いはそんな簡単な話ではないんだ」
青山が割って入るように言った。
「事情は津川さんから伺ました。その上で、この結婚は不適切だと申し上げているのです」
「まあまあ、君も若いから、自分の結婚を勝手に決められるのが気に入らない気持ちも分かる。しかしね……」
「そんな理由で断っているのではありません」
なだめすかすような村木の声を、怒気まじりで天川が遮った。
「じゃあ何だと言うんだ! そもそも、君は津川くんの気持ちが分かっているのか。こんな風に見合いを断られて、津川くんがどんなに恥をかくと思っているのか」
「恥をかくのは仲人の貴方だけでしょう」
村木は、途端に顔を紅潮させた。
「ああそうだ、私も恥をかく! なんだ、君は。私に恥をかかせたいのか。君はこの街じゃ天涯孤独、何の寄る辺もない。親もない。兄弟もない。友人もない。そんな君に、何かと世話を焼いてやろうという我々の気持ちが分からんのか」
その言葉を聞いた天川は、ふと冷静になったように呟いた。
「なるほどな。仲人は親代わり。異世界一世が自分とこの郷党じゃねえから、世話人の座に収まってちっとでも俺に影響力を及ぼしてえって魂胆か」
「何だ、その口の聞き方は!」
口を噤んで様子を窺っていた青山は、その時、別の考えが頭をよぎった。
武州弁だ……! ああ、本当に、あんな言葉を……。
ふと、青山の脳裏に、昔の光景が思い浮かぶ。
青山は、幼い頃、よく祖父母に面倒を見て貰っていることの多かった少年であった。
その昔、人々は誰も土地の訛りで話していたものだった。しかしいつからだろう。急速に「標準語」というのが広まると、誰もが訛りなど忘れてしまった。
この街の人間にとって、日本本国は憧れである。そこからやってきた新しい言葉遣いを、みな争って真似たのだった。中には、巧く真似ようとして、しかし巧く標準語も扱えず、しかし元の訛りも忘れてしまった者もいた。邯鄲の歩みという他ない。
そんな光景も、彼が大人になる頃には見られなくなった。彼の子供や、孫の世代は、誰も訛りを知らない。彼みずからも、やはり忘れていたのだった。今、天川の言葉を聞いて、同じように話していた祖父母の姿を思い出すまでは。
ああ天川くん。君は本物の……。
その時、初めて青山の中で天川は身内に感ぜられた。地縁意識の強い日本社会を引き摺って、この街では、今でも祖先の同郷者組織が残っている。郷党はみな身内も同然だった。しかし、日本から新たにやってきたこの青年は、自分たちとはどこか違うと、どうしても思えるものである。
そんな思いが、この時に消えた。青山の中で、天川は確かに郷党の一員になったのだった。
しかし、茫然とそんなことを考える青山をよそに、今も村木と天川の論争は続いている。
「そもそも仲人になる以上、たといどんなに事情のある結婚だろうと、それでも、少しでも当人が幸せになれるようにと考えるのが義務ではありませんか。この二人が確実に不幸になるだろうと思うのに、その仲を取り持つのは、人として余りに不誠実とは思いませんか」
「ああ、そうだとも。だからこそ、こうして君たちの仲を取り持った」
「だから、津川さんのことを少しでも考えろって言ってんだ。俺みてえな男と一緒になるなんて、こんな不幸があるか!」
その時、にやり、と村木の顔に余裕が生まれた。
「ああ、君は自信が無いのか。そうか。当たり前だ。誰しも初めて所帯を持つ時は、相手の為になるのか不安なものだ。しかし、それでも結婚するのが男というものだ。いいか、この結婚には様々な人間の思いが関わってる。大人になれ、天川くん」
今度は、天川の顔がみるみる紅潮した。
「誰がなるか!」
天川は立ち上がると、これ見よがしに机を蹴り飛ばして出ていった。茶が、少しこぼれた。
「天川くん!」
青山は慌てて彼の後を追った。
廊下の途上で天川を捕まえると、努めて穏やかな声で彼の説得を試みた。
「いいかい、天川くん。冷静に、津川さんのことを考えてくれ。彼女は、このまま行ったら政争の具だ。どうやってもまともな結婚なんかできる筈がない。彼女の為を思ってくれ。彼女に、君の妻という肩書きを与えて、守ってやってくれ」
青山にとって、この結婚が成立することは利益しかない。この街では、結婚が成立すれば、婚家の郷党に移籍することになっている。婿を取るなら夫が、そして千鶴のように嫁にゆくなら、妻のほうが夫の郷党に移籍する。即ち、この結婚で武州党が二人の異世界一世を独占することができるのである。
初め村木からこの提案が出たとき、すぐに彼の意図が察せられた。彼は二人の仲人として、つまり親代わりとして影響を及ぼすことを考えたのである。それを分かっていても、この結婚は青山たちの側にも利があることだった。
しかし、今はそんなことはどうでも良い。青山の中には、先ほどまでとは違い、こんな見知らぬ世界に飛ばされ、右も左も分からず苦労している二人を自分たちの為に利用することへの、自責の念が生まれていた。そしてそれが、津川千鶴への純粋な同情へと変じていたのである。
「天川くん。いいから」
ふと、千鶴の声が聞こえて、二人は振り向いた。
天川の目は真っ赤に涙ぐんでいる。
千鶴は、壁に耳をつけて村木と天川とのやり取りを聞いていたのだが、天川が出ていったのを聞いて彼女も着いてきたのだった。
「天川くん。いいから」
「しかし……」
「いいから、私の為だと思って、ね。青山さん、村木さんには、天川くんが結婚を承諾したって伝えてくださる?」
「あ、ああ……」
青山が去って行くのを見計らって、千鶴は再び天川に声を掛けた。
「さっきも言ったでしょ? 私はいいから」
天川は黙ったままである。
「青山さんも言ってた通り、私はさ、村木さんが持たせてくれることになってる持参金を、これからの生活の当てにしてるの。私の為に、ね?」
幼児をあやす母親のような、極めて穏やかな千鶴の声音に、天川は何も言えずに黙ったままであった。
その日は、そうして終わった。