雨降る部屋、紫陽花の香りを知る
眠たそうな目で君は爪に薄い紫を重ねていった。最後にトップコートを塗ると一通り見つめてから満足そうに一息吐いた。
「良いもんでしょ」
向けられたのは、爪先に向かって濃くなっていく紫の花のようだった。もう殆ど乾いているはずなのに濡れているように艶やかだった。
「これ、乾いてるの?」
「表面はね。完全に乾くのは丸一日くらいかかるのかな」
恐る恐る触るとつるんとした滑らかな感触だった。
「そうだ、窓開けてくれる?夜風入れないと、んっ。ちょっと頭痛いや」
確かに独特の匂いで少し頭が痛い。もう少し早く窓を開けておけばよかった。本の樹が辺りに生えている足の踏み場のない床を慣れた足取りで進む。
窓を開けると熱さで爛れた空気が肌を撫でてきて気分が悪くなる。
「そうだ、浅田そろそろ学校来いよ」
僕は夜空を眺めるようにして大して期待もなく言う。
「んー、気が向いたらね」
彼女は腕を伸ばして色んな角度で指先を見ながら声音で行く気がないことを言う。僕が定位置に座ると彼女は伸びをしながら背後のベッドに移り、座る。
「今日も泊まってく?」
「いや、帰るよ。明日学校だし」
「へー、じゃあ今日が日曜日だったのか」
机の上にあるカレンダーは去年の9月から進んでいない。
「夏休み中の登校日だよ」
「夏休みにまで学校に行くのか。面倒だね」
嫌そうな顔をしているが、浅田は只今人生の夏休み中だ。
「私の家から行きなよ。起こしてあげるからさ」
「それが出来ればそうしてるけどな。浅田といると僕がダラけるんだよ」
「良いじゃん、2人なら堕落しても怖くないぜ」
無気力な笑顔で手招きしてくる。こいつは知らず知らずの内に人と腐るのが上手いなと思う。腐れ縁だから、誰よりも近くでこいつが隣にいる人を腐らせていくのを目にしてたから知っている。
「君が居ないと寂しくなるなぁ」
そう言いながらも僕を見ない。
「そう思うなら学校に来て欲しいんだけどな」
「それは先生に頼まれたから?」
「違うよ。僕が浅田と学校で会えないとつまらないからだよ」
「君は友達居るんだからさ。私なんかと居ないでちゃんと大事にしないと、いなくなっちゃうよ」
「本当なんだよ」
「はいはい。分かった分かった。じゃあ、また暇になったら来てよ。君はいつでも大丈夫だから」
そのまま横になる。眠たそうな声だった。
「じゃあ、またね。また泊まりに来るよ」
返事はなく、聞こえてきたのは寝息だった。
僕はどうせまたここに来るだろうとほとんど手ぶらで浅田の部屋を後にする。部屋を出る前に窓を閉めに戻ったが浅田は背中を向けたまま動くことはなかった。
「鍵、かけとくからな」
玄関を開けて、今が夏だったことを明確に思い出した。クーラーの効いた部屋の魅惑を断ち切って帰路を急いだ。星一つ探す余裕もこの暑さじゃなくなる。涼しさが足りない。
10日ぶりくらいで自宅へ帰ると両親に驚かれた。明日が登校日であることを伝えると、冷香ちゃんのところから行けば良かったのにと浅田と同じことを言われた。隣の家だから出来なくはない。あいつといるとサボりそうで嫌なんだよ、と言っておいた。
風呂に浸かっていると、妙な空気の違いを感じた。それが浅田が使ってたシャンプーやボディーソープの香りと違うものを使ったからだと気がつくと何となく恥ずかしく思えた。
気がつけば夏休みが始まってからずっと浅田の家にいた。両親不在の不登校の幼馴染み。人生で一度出会えるか分からない、一番相性の良い友人が最初の友人になってしまった。それが僕と浅田の関係だった。
何よりも一緒にいて楽しい他人の存在を幼くして知ってしまうと、その人以外とは関わる必要を感じられなくなる。その結果、僕と浅田は常に一緒にいた。運動会、文化祭、遠足、旅行、春も夏も秋も冬も来年も、来年も、来年も。思い出を振り返るとほぼ全てに浅田がいる。
自分の部屋は日にちが経っても何も変わることもなくそこにある。ベッドへ倒れるように横になって、浅田が学校に来なくなった頃を思い出す。喪失感とすぐに慣れてしまった自分、他の友人が出来た時に僕の中でようやく時計が進み出した気がしたこと。
浅田の部屋に入り浸って分かったのはやはり浅田といると心地よいことと、動き出したはずの時計は紛い物で、僕の時計はあの時から針が止まっていることだった。
浅田とその他全てが天秤で揺れている。そんな気がした。隣が空虚だからか寝付くのに時間がかかった。
目が覚めて、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。頭が追いつくと、どこまで僕は彼女に依存しているのかと、ため息が出る。なのに口角が上がりそうになって、誰に見られるわけでもないのに、必死に堪えた。
教室に入ると変なざわつきがあちこちでされていた。僕を見る視線が多い気がする。席まで来て理由を知る。
整えられた髪には見慣れた寝癖はなかったが誰かは分かる。
「なぁ、なんで来てるんだよ」
僕の席で姿勢良く寝てた彼女が目をうっすらと開けて答える。
「君が来てって言ったから」
本当に来るとは思ってなかった。
「嘘、君と同じか……気まぐれだよ。それにしても、ここ暑いね。保健室行ってくる」
そう言ってさっさと教室を出ようとするが「あっ」と言って立ち止まりかけてそのまま行ってしまった。どうせ「用事が終わったら起こしに来て、偶には一緒に帰ろうよ」とか言いたかったんだろう。
帰りに寄ると「楽でいいね」と言って小さく笑いあった。
僕たちは帰ったらシャワーの争奪戦になるなと今からため息が出る。夏はまだまだ続く。
炎天下、少し先を歩く彼女は濡れた紫陽花を揺らしている。久しぶりに見る空は雲一つなくどこまでも澄んだ青色をしていた。
夏ですね。