子供
二度目に会ったのも、同じ公園だ。一度目から丁度、一週間後のことだ。
今度は声をかけられた。
「こんにちは」
肩を叩かれて振り向くと、青年が立っていた。またもや、怪訝な顔をしていた。もしかして、この人、これが地顔なのかも? 目の前にいる男の子の顔を真似して、眉毛をぎゅっと近づけてみる。
「ごめん、嫌だった?」
困り声が聞こえて、慌てて首を振った。
「全然嫌じゃないです。ていうか、何がですか?」
表情はあなたの顔を真似してみただけです。とは流石に言わなかった。それが失礼だということくらい、頭の悪い私にもわかった。
「三回声かけたんだけど、反応なかったから。この前、帰り際に話しかけた時も、無反応だったし」
頭を掻いて困ったように笑うのを見て、初めて彼の美しさに気が付いた。ビルの隙間から注がれた日差しが、スポットライトみたいに彼を照らしていた。薄茶色の髪の毛が光に当たって透けている。半分隠れた瞳はくっきりとした二重瞼に長い睫毛、薄茶色の綺麗な水晶体。丁寧にアイラインを引いてマスカラを重ねた私よりもずっと綺麗で、どことなく気品がある。
絵のモデルをお願いできないだろうか? そんなことを考えた。
「絵に集中してて、聞こえなかったんです」
「良かった。嫌われてるわけじゃない。そうだよね?」
「は?」
綺麗だが、おかしな人だ。首を傾げると、彼は念を押すようにゆっくりと口を開いた。
「僕のこと、嫌いじゃないよね?」
「はい。あなたのこと何も知らないし、嫌いじゃないですけど……」
別に好きでもないですよ。そう続けようとして、遮られる。
「水曜日にここに来てるの?」
「ああ、そうです」
当時の私は都内の美大に通っていて、公園は大学のすぐ傍にあった。週の真ん中水曜日に取っている講義が、妙な具合に一限空いてしまったため、暇つぶしにこの公園を使っていたのだ。
「君に会いたくて、あの日から毎日はってたんだ」
「……」
おかしいどころじゃない。彼は変態かもしれない。口元に笑みを浮かべて飄々とそう言ってのける彼を見て、妙に冷静になる。
変態と言う奴は、見た目からして変態なのだと思っていた。例えば裸にコートを着ていたり、涎を垂らしながら意味不明な奇声を発していたり、とにかく変態だと一目でわかる姿をしていると思っていたけれど、こんなに美しく聡明そうな変態もいたのか。
「あのさ」
変態は、満面の笑みで言った。
「僕は兼光雅俊。T大学医学部の三年生。静岡出身で、今は港区で一人暮らし。趣味は読書と絵を描くこと。君が好きだ。僕と付き合わない?」
「……」
二の句が継げなかった。
変態は頭が良いらしい。笑顔は美しいし、港区でマンションを借りられるのならば、お金もあるのだろう。しかし、彼は私のどこに惚れたのか。彼とまともな会話はしていないし、何より、私は普通の学生だ。成績は普通。容姿もスタイルも悪くはないと思いたいが、とりわけ優れているわけではない。美大生によくいる個性的なタイプでもない。絵は唯一の特技だけど、それが評価されているとも思えない。
もしかして、変態のふりをした新手の詐欺だろうか。
「絶対に損はさせない。幸せにするよ。結婚を前提に付き合ってほしい」
彼は自信満々にそう言った。
確かに彼は綺麗だ。太陽は彼だけにスポットライトを当てているし、滑り台の猫はのどかに背伸びしている。都会の喧騒も錆びれたこの公園には届かない。まるで映画のワンシーンみたいに、完璧な光景が目の前に広がっている。
だけど、残念ながら、言動が変態だ。
「本気ですか?」
それに、私は恋愛を損得で考えたりはしない。私には、彼の容姿が美しいことも、高学歴でお金持ちなことも、どうでも良い。好きに慣れそうなら、付き合うし、無理であれば付き合わない。
「本気だ。僕は嘘はつかない。有言実行がモットーなんだ」
胸を張った彼を、まじまじと見つめてから、小さくため息をつく。
「条件が一つだけ」
「何だい?」
にっこりと笑ってみる。
「この前描いていた猫の絵を、私にください」
彼の絵は素晴らしい。私は絵が上手い人が好きなのだ。たとえ、変態だったとしても。
*
変態だと思っていたまさくんは、付き合うと、少々変わり者の、しかし私にとっては素敵な恋人になった。私はまさくん以前にも恋人が二人いて、一人目は暴力を振るい、二人目は浮気性だった。絵が上手いこと以外になんのとりえもない男だったのだ。
交際は順調、月日を重ねるごとに、絵の上手さ以外にも、好きなところがたくさん増えた。
例えば、風邪を引いた時、問答無用で寝かされて、医学書片手に一日中つきっきりでいてくれた優しいところとか。イベントの時には必ずホールのケーキを用意する変なこだわりとか。時間に細かく、一五分前には待ち合わせ場所で待機している律儀なところとか。
「まさくんは、何で私のことが好きなの?」
「好きになるのに理由はいらないさ。ただ、興味を持ったきっかけはある。こんな良い男が隣にいるのに
見向きもせず、キラキラ目を輝かせて筆を走らせる女の子が、忘れられなかった」
要するに、自分に興味なさ気な私が気に入ったのだ。彼の気を引こうと、目をギラギラさせて、あの手この手で接近する麗しい女性たちを見ると、あの手の女に、彼が小食気味なのも頷ける。まさくんは、見た目によらず何事も地味好みなのだ。
休日も公園でのんびりと絵を描くのが好きだし、夜遊びはせずに早く寝て、朝はベットでだらだら過ごす。地味な私生活に、浮かない素朴な私が好きなのだ。私はそう理解している。
「卒業したら、すぐにでも結婚しよう」
まさくんは、女性ならとろけてしまうほど甘い笑顔でそう言った。寝ぼけ眼で朝ごはんを食べている途中とか、レポートの途中で息抜きにコーヒーを飲んだ時とかに。スケッチの途中で思い立ったように口にすることもある。軽い口調だったけど、いつだって彼が本気なのは、知っていた。
そして、まさくんはモットーである有言実行を守り、卒業式の後すぐに、プロポーズをしてくれた。雑誌でよく特集を組まれている夜景がきれいなレストランで、これまたよく見る人気ブランドのロゴが刻印された皮張りの小さな箱をパカリ。
そしてその瞬間、彼らしくない顔面蒼白。思い出すと、今でもにやつく。完璧主義の彼にしては珍しく、指輪のケースに中身を入れ忘れるというミスをしていたのだ。
まさくんの人間らしさを見た気がして、私は何だかとても嬉しくて、彼をまっすぐに見つめたまま堂々と、見えない指輪を嵌めてみせた。「よろしくお願いします」余裕たっぷりに笑顔を作ると、まさくんは少しだけはにかんだ。
すぐに婚姻届を提出した。早すぎる。周りに言われたりもしたが、反対はされなかった。母は変わり者の娘をエリートな旦那が貰ってくれたと喜んでいたし、まさくんの両親は、子どもはいらないと豪語していた彼の意見を変えた私を歓迎してくれた。
昔通った大きなステンドガラスの教会で、色とりどりの光を受けながら愛を誓った。祝福の言葉を受けて、フラワーシャワーを浴びて、手を繋いでバージンロードを歩いた。外国は戦争が頻発していて治安は悪かったから、新婚旅行は沖縄に行った。離島に浮かぶコテージでゆっくりと過ごし、お金を貯めて借りたマンションで新しい生活をスタートさせた。
真っ白な壁と、クリーム色のフローリングの二LDK。買い揃えた家電はピカピカだし、旧居から運んだ水栽培中のハーブは窓際で元気に育っている。お義父さんがくれた木製の飾り棚は上品なチーク材でできていて、取手が陶器でできているのが可愛らしい。その棚に合わせて、奮発して買ったいくつかの写真立てには、まさくんとの結婚式の写真を入れてある。ツーショットを取る度に更新しようと、いかきも新婚のカップルがしそうな馬鹿げた、だけど幸せな約束をしている。遊びに来た母親にたっぷり惚気て、飽きれた顔で笑われた。全てが完璧だった。
そしてその幸せは、完璧なものゆえに、すぐに欠けてしまった。
発端は、そう、母が死んだことだ。唯一の身内だった母の体には知らぬ間にがん細胞が生まれ、私が新婚生活を満喫する間に手が付けられないほど増殖していたらしい。異変を感じて病院に通った母が、自分の体のことを知ったのは全てが手遅れになってからだった。
六〇の誕生日を五日過ぎたばかりの母は、死を迎えるには早すぎた。それでも母は、早すぎる死の到来そのものに落胆はせずに、代わりに私に言ったのだ。
「母さん、あと半年で死ぬの。千鶴子の子ども見れずに逝くのは残念だわ」
すぐに妊娠したとしても、母に私の子どもを抱かせるのは不可能だ。死を知ったことはもちろん、覆せないその事実に強い衝撃を受けて、私は言葉を発せなかった。一しきり泣いた後、せめて早く妊娠して、お腹の赤ちゃんを写真で見せてあげたい、そう考えた。
それから半年、タイミングを調べて積極的に子供を作ろうと努力したけれど、結局赤ちゃんは私のお腹には宿らず、そのまま母は死んだ。葬儀では、もう涙は出なかった。母がいないのだという実感が湧かないまま、靄がかかったみたいな曖昧な思考の中で、ふと考えた。結婚してから一年と半年、子どもができないのには、何か原因があるのではないだろうか、と。全身が粟立った。今までそう思わなかったのが、不思議なくらいだ。
私は自分の血を分けた子どもが欲しかったし、どうしても作らなければならなかった。それは、希望であり、義務でもあった。
数日後、まさくんが勤める病院で、私と彼の身体を検査した。結果を聞いた日、まさくんは帰るなり、玄関で涙を流した。幸せは音を立てて、見るも無残に崩れ果てていた。