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幸福世界  作者: 古浜夕
千鶴子
8/16

まさくんと私

言葉は呪いだ。

 彼を一番苦しめているのは、不運な境遇でも、彼の不運を面白がる周りの目でもなく、私が口にした言葉たちなのだ。彼との幸せを願った私が、世界一愛しい彼を呪っている。


 愛とか夢とか希望とか、キラキラと輝く美しい言葉だったはずだ。誰かを貶めたり、不幸を願ったりすることはなかった。私の、私たち夫婦の望み、結婚して間もない新婚夫婦なら誰もが望むようなささやかな幸せを唱えただけなのに。


「結婚したら、早く子どもが欲しい」


 口癖のように、私はそう言った。彼と恋人になって間もない頃、結婚という響きがまだ遠い未来としか感じられなかった頃から、ことあるごとにそう口にしてきた。


「子どもなんてどうでも良いさ。千鶴子さえいれば、満足だ」


 私を窘めるように、憮然として言う彼に、よく反論したものだ。


「そんなこと言わないで。私の夢なの。大好きな人と、その人との子どもと、素敵な家族を作るの」


 口を尖らせ人睨みすると、彼は怯む。そのタイミングでとびきりの笑顔を作った。迷いなど少しもなかった。彼の気持ちを変えることが正しいと、信じて疑いもしなかった。


「確かに千鶴子の夢を叶えるのも僕の務めなのかもな」


 肩を竦めてそう返すようになるまで、ほんの一、二年。


「早く子どもが欲しいな。俺と千鶴子のミックス、可愛いだろうな」


 最近では自らそう切り出すこともある。私が彼を変えたのだ。そのことを誇りに感じていた。家族や友人に得意げに話したこともある。家族は穏やかな笑みを湛えていたし、友人はのろけだと呆れながらも、祝福してくれた。誰も私を咎めることはしなかった。


 それは祈りに似ていた。

 私の母親はカトリック信者で、子どもの頃はよく教会へ連れて行かれた。ステンドガラス越しの鮮やかな光が注がれる美しい教会で、瞳を閉じて手を合わせる母の気持ちは、当時の私には理解しがたかった。

 とても退屈で、憂鬱な時間。

 母の長い睫毛と低い鼻をじっと見つめていた。顔の産毛が赤色の光を受けて、キラキラと光っていた。いつもは旬を過ぎた、ただのおばさんにすぎない母が、この瞬間だけは魔法にかかったみたいに美しく見えた。母が瞳を開け、私の方を向いた瞬間、魔法は解けて、いつものぱっとしない、だけど人のよさそうな中年女性の顔に戻る。

 だけど、祈る前より表情は穏やかで、やけに晴れ晴れとしている。随分機嫌がよくなって、帰りにアイスを買ってくれることもある。数分瞳を閉じていただけで、何も変わっていないのに、どうしてこう嬉しそうなんだろう。幼い私は不可解に思ったものだが、今なら、少しだけ母の気持ちがわかる。


「あなたを身ごもる時も、こうやって祈ったのよ。赤ちゃんが宿りますようにってね。そうしたら、あなたがお腹にきてくれた」


 母は、望みの為にできる唯一のことを、精一杯成し遂げたつもりだったのだろう。祈り続けることで必ず叶うと、そう自分に言い聞かせ、信じていたのだろう。

 恋人の心を変えたくて、瞳を閉じるかわりに、何度も言葉を口にした。唱え続けるうちに、彼の考えは私の望みに寄り添うようになった。かつて子を持つことに無関心だった彼とは別人のようだ。



「まさくん。大丈夫だから」

 

 世界一愛おしい私の旦那様、兼光雅俊は泣いていた。フローリングの冷たい床に膝をつき、小刻みに肩を震わせ、大粒の涙をこぼした。こんな彼の姿は、初めて見た。いつも自信満々、堂々と胸を張ってシニカルな笑みを浮かべる彼は、そこにいなかった。


「大丈夫」


 馬鹿の一つ覚えみたいに、そう唱え続ける。言葉にすれば真実になると信じて、祈るように、ゆっくり呟く。


「……ごめ、ん」

「泣かないで。大丈夫」


 何が大丈夫なのか、自分でもよくわからない。まさくんが? 私が? それとも、家族が?

 わからないのにそれしか言えないのは、混乱しているからだ。私はショックを受けている。だって、本当に本当に、子どもが欲しかった。子を成すことこそ、最大の親孝行で、使命だと、そう思っていた。まさくんと幸せな家族になる指針だと思っていた。だけど、私は子どもが産めない。両親に恩返しもできない。それどころか、まさくんを苦しめてしまった。


 まさくんの涙を自分のシャツで拭うと、そっと頭を抱え込んだ。どうすべきかはわからないが、何が大切なのかははっきりわかる。 

 どうか、彼が幸せになれますように。私の幸せも、勝手な使命感も、申し訳ないけれど、両親への恩返しも、ひとまずはどうでも良くて、私の最愛のまさくんが、自分を責めずにすみますように。

初めて、神様に祈った。母から洗礼を受けるか問われた時に、神様なんて、そんなものいるわけないと鼻で笑った。何を今更と、呆れられるかもしれない。


 でも、どうか、どうか神様。まさくんが悲しむのは、私のせいなんです。私が彼を変えなければ、彼はこれほど自分を責めませんでした。どうか、お願いだから、彼の涙を取り除いてください。


   *


 まさくんは、天から祝福されたような人だった。

 まず、頭が良いし、顔もかっこ良い。スタイル抜群で、人当りも良いし、その上、芸術のセンスがあって絵がとても上手いのだ。異性のどの部分に惹かれるかは、人それぞれだと思うけれど、まさくんに恋する女の子は、大抵が、初めの四つを良いと感じるらしい。日本最高峰の大学の医学部に通っているところ。高い鼻と切れ長の瞳が、そこらの芸能人より整っているところ。背が高くて、でも貧弱じゃないところ。黙っているとクールに見えるのに、笑うと人好きのする愛嬌が出て、話題も豊富なところ。

 だけど、私はそんなのどうでも良かった。最後の一つが、肝心だったのだ。


「すごい、絵がお上手ですね」


 まさくんと初めて出会ったのは、雑居ビルの間にひっそりと存在する、小さな公園だった。

遊具は滑り台だけ、日があまり当たらないからか、元気のないひょろりとした気が一本だけ生えている。花壇はなく、湿った土からは雑草が生え放題。後は隅に自動販売機一つと、ペンキが剥がれかけた青いベンチが置かれている。たったそれだけの、さびれた公園。

 まさくんはその古びたベンチに座り、絵を描いていた。子どもがいない公園の滑り台を我が物顔で占領し、気持ちよさそうに寝ているトラ猫を、繊細なタッチで大学ノートに写生していた。盗み見るつもりはなかった。後ろを通りかかった時、偶然見えてしまったのだ。見えてしまったら、声をかけずにはいられないほど、素晴らしいスケッチだった。


「私も隣で描いて良いですか?」


 返事がないのでそのまま続けると、彼はようやく私の方を見た。怪訝な顔をして、言葉は一言も発さない。沈黙をイエスと受け取ることにして、私は隣に座った。スケッチブックを取りだして、横たわる猫を描き移していく。会話はなく、熱中しているうちに、いつの間にか彼は去っていた。完成した彼のスケッチが見られないのが、少しだけ残念だった。


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