一人ぼっち
その後の一週間、兼光さんの家で過ごした。朝ごはんと昼ごはんは僕が作り、夜ご飯は兼光さん。お腹がはち切れるくらい食べて、他愛無い話をして笑って、満腹になると、寝転がって本を読んだ。
兼光さんは、自分のことをたくさん話してくれた。今までで初めてのことだ。
「私には妻がいてな」
直接聞くのは初めてだったけど、噂は聞いたことがあった。写真がリビングに飾ってあったから、顔も既に知っていた。目を細めて笑う姿が優しげな、柔らかい雰囲気の女性だ。
「どんな人だったの?」
「良い女だったよ」
そんな台詞は小説か映画の中でしか聞いたことがなくて、何だか照れくさくなってしまう。
「結婚を申し込むとき、かっこよく決めたくて、こっそり指輪を用意した。誕生日に夜景の綺麗なレストランを予約して、跪いて渡そうとしたんだ。映画みたいにな」
兼光さんは、ロマンチストだったとは。今の無愛想な性格からは想像できない。
「ケースを開くところまでは良かったが、当の指輪を入れ忘れていた。かっこつけていただけに、顔から
火が出るほど恥ずかしかった。だけど、当たり前のように、存在しない指輪を薬指にはめてくれたんだ。『よろしくお願いします』って言ってな。そんな人だった。お前の母親だ」
兼光さんにとっては、その恥ずかしささえも、決して捨てたくない愛おしいものだろう。それを捨てるくらいなら、死んだ方がましなくらい、大切なものなのだろう。
「ちなみに、その思い出のケースが、手紙を送った小箱なんだ」
照れたように笑う兼光さんは、死を待っている老人とは思えないほど、生き生きとしていた。
「彼女は子どもを望んでいてな。だけど、なかなかできなかった。調べたら、私に問題があることがわかった」
妊娠に関する文献には制限がかかっていて、知識はほとんどなかったから、その「問題」についてはよくわからない。
「彼女は諦める素振りも見せたが、私は頑なに拒否した。自分の専門分野でもあったから、半ば意地だった。研究が上手くいかないまま、彼女は死んでしまった。新しい国ができて、子どもを作ることが禁止されて、それでも諦めきれずに研究を続けた。あいつらの元を離れたのは、方針が気に食わなかったこともあったが、研究を続けたかったのも理由の一つだな。それでもだめだった。俺は無精子症候群なんだ。わかるか?」
「はい」
やはり、兼光さんは実の父親ではなかったのだ。一度、宣言されてはいたが、それでもどこかで期待していた自分がいる。
「そんな時、国から提供を頼まれた。私が研究を続けていることは知っていたんだろう。そこで、せめて妻の遺伝子を残すことができればと、彼女の卵子を託した。お前と妻は良く似ているよ」
兼光さんは嬉しそうに笑う。
「お前は私の息子だ」
少しの沈黙が流れたあと、兼光さんは改まった口調で言った。
「お前の遺伝子上の父親は」
「聞かなくて良い」
僕の父親は兼光さんだけだ。人と人を強く繋げるのは、血縁だけではないと、僕はもう知っている。
「いや、今後何か役に立つかもしれん。知識として知っておけ。お前の遺伝子提供者は、鬼丸秀久、八人目の賢人だ」
「誰、それ」
この国の創始者は七人、歴史書にもそう記載がある。八人目がいたなんて、誰が知っているだろうか。
「鬼丸はな、私たちのリーダーだった。誰よりも頭が良く、理想主義で、優しかった。今、完成された制度の中で、賢人でさえも考えることを辞めつつあるが、鬼丸はただ一人考えているはずだ。この国のあり方を。あいつは、自分の脳を取り替えていない。過去の悲劇を忘れずに、向上心を持ち続けるためだ。長持ちさせるために、定期的に睡眠状態で凍結して先へ進んでいるくらいだからな」
今の日本は鬼丸さんが維持しているということだろう。
「今後の生き方はお前が考えろ。この国で過ごすよし、変えようと試みるもよし、逃亡するもよしだ」
「逃亡って、どこにさ」
冗談かと思ったが、兼光さんの表情を見るに、そうではないらしい。
「世界中の人間がウイルスで死んだと思われているが、そうでもない。生き残っている者もいる。数は少ないが、私もいくつかは集落を知っている。近いのはそうだな、台湾に一つあるな。現状は知らないが、あれから一〇〇年経っているから、一つの国になっているかもしれん。日本に嫌気が差したら、そこへ逃げるもよしだ。私の家にはジェットもあるから、それの使い方を教えておこう」
何気ない話の中で、兼光さんは死ぬ準備を進めていく。僕に残すものを選び、伝えるべきことを伝えていく。それに気付く度に、涙が出てくるのを我慢しなければならない。
「この国は正しくはない。だが、正しくあろうとしているのは確かだ。いつだって、この国は理想論の中にある。お前が国を出ることを望むなら、それを強制的に辞めさせたりはしないし、罰を与えることもないだろう。幸せに生きることを望むなら、いずれにしても好意的に接してくるさ。鬼丸はそういうやつだ」
兼光さんはそう笑った。
*
兼光さんの最期は見ていない。
「今日は帰れ。明日からは来るな」
その言葉が意味することがすぐにわかって、僕は無理やり作ったぎこちない笑顔で頷くことしかできなかった。
「おやすみ。じゃあな」
「おやすみなさい。良い夢を」
別れの言葉も感謝の言葉もなく、お辞儀をして、手を振っていつものように家を出た。
数日後、連絡ロボットから兼光さんの死を知らせる電話が入り、私財の権利書を渡された。しばらくは、テレビでもトップニュースになり、騒がれもしたけれど、そのうち誰も話さなくなった。
僕が兼光さんの自宅に向かったのは、そんな事件があっただなんて、世間が思い出しもしなくなった、一ヶ月と少し後のこと。兼光さんが死んでから、四九日後のことだ。
いつものようにチャイムを押して、玄関から入り、ラボの床に白い塊が転がっていないのを確認してから、リビングへ向かう。もちろんソファーには、誰も座っていない。
――ホッホー、ホッホー
鳩時計が二回鳴いて、時計を見ると、鳩の首がきらきら光っている。
「何だ、これ……」
近づいて手に取ると、それは二つの指輪だった。
「昔はな、大切な誰かを見つけた時、繋ぎとめる証に指輪を贈ったんだ」
兼光さんの言葉が思い出される。
「俊も、大切な誰かを見つけろよ。その人の為なら、なんだってしてやろうって気になるくらい、愛おしく思える人を。その時はプレゼントをやろう」
銀色のそれを、指にはめてみる。ぴったりだった。太陽の光に反射して、指輪はキラキラと光る。
兼光さんは死んだのだ。その時、初めてそう実感して、涙がとめどなく溢れた。
「一人ぼっちだ」
呟いてみたら、妙に心にしみて、悲しくなった。
「やっぱり、死んでほしくなんてなかった」
この世界を願った国民の気持ちが、初めてわかった気がした。