真実
兼光さんは、最後の一滴までコーヒーを吸い上げると「うむ」と唸った。そして、椅子から腰を浮かせて僕のカップを覗き込み、空になっているのを確認した。そして、もう一度「うむ」と唸ってから、大きな声で意気揚々と宣言する。
「はじめるぞ」
「わかりました。頑張ってください」
諦めるようにそう言って、兼光さんの背中を見守る。何も教えてもらえない僕は、手伝うことすらできない。せめて成功を祈るべきなのだろうが、それさえできない。何とも役立たずだ。
ばれないように小さくため息をついたタイミングで、隅に置かれていた段ボールの中をあせくっていた兼光さんが、何かを投げた。反射的に受け止めたそれは、正方形の小さな箱だった。剥げかけてはいるが、真っ白な革張りで、随分と高級感がある。
「何です? これ」
「それに手紙を入れてくれ」
蓋を開けてみると、既に小さく丸められた紙片が入っていた。きっと兼光さんの手紙だ。自分の手紙も同じように詰め込むと、それだけで小さな箱は一杯だ。
「前のはもう使わないんですか?」
以前はもっと大きいカプセルを使っていたはずだ。容量はこれより大きく、作りもしっかりしていたのに、なぜ今更こんなものに変えたのだろう。
「これで良いんだ」
もっとも、詳しい仕組みなんてわからない僕は、兼光さんに断言されればそれまでだ。何らかの意図があるのだろう。
兼光さんは、オーブントースターを大きくしたような機械に、いくつかの配線を繋いでいる。真っ黒で大きなステレオのような機械、巨大なモニターに、アンテナと思われる丸い円盤。
兼光さんはそれらを順番にならべた後、大きく首を縦に振った。準備完了ということだろうか。
「俊」
「了解」
意図を察して、先程の箱を投げると、兼光さんはオーブントースターの中に入れた。
「いくぞ」
兼光さんがボタンを押すと、機械が一斉に振動する。そして、その地響きにつられて、テーブルも棚も天井から垂れさがる電球も横揺れする。いつものことだが、この現象が訪れる度に、古びたこの家が倒壊してしまうのではないかと心配になる。
――ポン
ポップコーンが弾けるような間の抜けた音がした後、機械は急に動きを止め、部屋は静寂に包まれる。これもいつものことだ。レンジの中を見ると、小箱は消えていたが、だからといって成功ではない。今までだって、カプセルが消失したことは何度もあった。それでも、兼光さんが不成功だと言えば、実験は失敗だ。結果を知るには、兼光さんに聞くしかない。
兼光さんは、機械の前で座ったまま、うんともすんとも言わない。失敗か、成功か。失敗だと信じてはいても、この瞬間だけは毎回ドキドキしてしまう。
「兼光さん」
堪えきれずに名前を呼ぶと、兼光さんはゆっくりと振り返った。何も言わない兼光さんに、もう一度催促しようと口を開きかけた時、小さな声が聞こえた。
「成功した」
眉はハの字に垂れ下がり、目は虚ろだ。かろうじて口角は上がっていたが、長年の研究が成功したとは思えないほど、寂しげな顔だった。
「成功って、じゃあ世界はどうなったんですか?」
瞬時に周りを見渡すが、誰の姿も見えない。テレビのチャンネルを変えてニュースを見ても、事件とも呼べないような平和なトピックが流れるだけ。いつもと全く変わりはない。
実験が成功した暁には、警備ロボットが何台もやってきて兼光さんを連行するか、もしくはすっかり変わってしまった世界が現れると思っていた。
「変わった様子はないけど」
恐る恐る口にすると、兼光さんは穏やかに笑った。
「世界は変えられなかった。変わったのは、私だよ」
「どういうことですか?」
兼光さんはこの国を嫌っていた。穏やかな幸せが続くこの国を、変えたかったはずだ。そのための研究だといつも言っていたではないか。それなのに、変わったのは兼光さんだという。意味がわからなかった。
「腹が減ったな。飯でも食べながら、説明するとしようか」
*
テーブルの上には温かいビーフシチュー、サニーレタスとトマトのサラダ、焼き立てのフランスパンが載っている。どれも兼光さんのお手製だ。朝から何も食べていないのに、美味しそうな食事を見ても、食欲は湧かない。気になることがありすぎるのだ。
「野菜は丸の内さんからもらったものだから、新鮮だ。きっとうまい」
何故だかわからないが、嫌な予感がした。兼光さんの表情は、長年の研究を成功させた喜びというより、何かに対して安堵しているように見えた。僕はそれが腑に落ちないのだ。
「兼光さん、説明してください」
兼光さんは問いには答えずに、平然と皿を取ってサラダをよそう。
「どういうことなんです?」
早口でまくし立てるように言うと、兼光さんはなだめるように、手のひらを揺らした。
「順番に話すよ。まず食べろ」
仕方なくスープを口に含むと、香ばしい風味が広がった。文句なしに美味しい。だけど、心は満たされない。
「俊は手紙にこう書いていたな。今は幸せな時代だと。迷いも妬みもなく、死もない。永遠の幸せを手に入れたと」
「……言ったけど、何ですか?」
数時間前にしたばかりの話だ。はっきり覚えている。
「それを、私は若者らしい考えだと言った」
「馬鹿にしてたんじゃなかったんですか?」
「違うと言っただろう。つまりな、私も若い時はそう考えていたんだ」
「え?」
「私だけじゃない。国を作った賢人も、この国の皆もそう思ったんだ。あの頃は皆、若かった」
兼光さんは、何が言いたいのか。
「ひどい時代を生き抜いたからな。辛いことも悲しいことも多すぎた。だから嫌なこと全てを消し去りたかった。それで、この世界を目指したんだ。戦争もなく、病もない。怒りも妬みも悲しみも、負の感情は全て捨てた世界だ」
それは教科書の通りだった。皆の理想の世界が今なのだ。
「さっきも言ったけど、そんな今を生きることができて、皆幸せだよ」
兼光さんたちが作ってくれたおかげだ。一呼吸置いて、そう付け加える。
「そう思っていたんだよ。だから、私たちは何を犠牲にしても、この世界を作りたかったんだ」
「犠牲?」
「そう、犠牲さ。この世界を作るために、国民一〇〇〇万人以外の、世界中の命を犠牲にしている」
意味が分からない。どん底からスタートした国作りに、犠牲も何もなかったはずだ。賢人は、マイナスの土壌から、全てを作り上げた。
「それは、逆でしょ? こんなことになった世界から、作り上げた国だ」
「違うんだ。歴史を学んだ時、都合がよすぎると思わなかったか。世界中の人間が死んでいるのに、なぜ日本人がこんなにも生き残ったのか」
確かに不思議だが、それは「奇跡」の一言で片づけられている。教科書の中でも、僕の中でも。
頭の中のもやもやを整理する前に、兼光さんが口を開いた。
「簡単だよ。生き残った者には免疫がついていたんだ。だから、かからなかった。奇跡なんかじゃない。事前に一〇〇〇万人を選んで、予防ワクチンを打っていたのさ」
「それって……」
兼光さんの言わんとすることに予想がついた。だからこそ、続きは口には出せなかった。
「そう、ウイルスをばらまいたのは、七賢人だ。パンデミックを起こしたのは、七賢人なんだ」
「どうして!」
七賢人は偉大なるこの国の創始者ではなかったのか。それでは、ただの大量殺人鬼だ。自分の信じていたものが足元から崩れ落ちるような感覚に、眩暈がした。
「理想郷を作りたかった。今の、この国だよ」
兼光さんは、一つ息を吐くと、訥々と口にする。
「当時、世界情勢は最悪だった。日本や他の先進国は、大義を掲げて、刃向う小国をつぶしにかかっていた。もちろん民主主義だったから、国民の総意で決まったんだよ。ミサイルで親しいものを殺され、復讐心に燃える国民は、誰もが憤っていたんだ。その弱小国にも、自分と同じ悲しみを抱える者がいることには気づかないふりをしていた。怒りや悲しみは、連鎖する。人間の歴史では何度も繰り返し戦争による悲劇が起こっていて、毎回反省しているのに、そこから学んだことを生かすより、今ある差し迫った怒りを解消する方が大事なんだ。敵国を一掃した後も大変だった。今度は国内で妬み合いだ。戦争で身内が死んだ者は、無事だった者たちを妬むし、戦争によって財を失った者は、利を成した者を恨む。最悪だよ。他の国でも同じだったはずだ」
感情を馳せることができなかった。語られる情報は、ただの情報として、頭の中を巡っていく。