まだ18歳
――ホッホー ホッホー
壁に掛けられた鳩時計が二回、軽快に鳴いたのを聞いて、我に返る。
二時にラボでな。兼光さんは電話でそう言っていた。今がその二時。そしてここは自宅だ。ラボまではどんなに急いでも四〇分はかかる。
「やばい」
兼光さんは、時間に厳しいのだ。身支度をする間もなく、手紙をポケットに詰めて急いで家を出る。裏庭に止めてある愛用の青い自転車に跨り、ペダルに足をかける。足に力を入れると、ゆっくりとタイヤが回りだす。
風を切って前に進むこの感触が、たまらなく好きだ。だが楽しんでばかりもいられない。何しろ僕は既に遅刻している。
灰色の高層マンションが乱立する中心街に背を向けてひたすら足を回す。舗装されていないでこぼこの地面でバランスを取るのにはもう慣れたけど、舞いあがる土埃だけは毎回困ってしまう。
二三世紀、現在の日本では、国民のほとんどが、中心街に建つ高層マンションに住んでいる。国が用意したこのマンションは、極めて快適だ。備え付きのロボットが勝手に清掃してくれるし、買い物パネルをタッチするだけで食材も購入できる。家事や震災、津波に至るまで起こりうる全ての災害から守られていて安全だし、医療機関への直接通路も整備されているから、月に一度の定期検査へも通いやすい。人が住むにはうってつけの環境だ。
中心街から少し離れた、だけど徒歩圏内に住むのは、僕を含めた、所謂、変わり者だ。趣味の建築を生かして増築を繰り返す中村さんは、もはや家と呼んでもよいかわからない奇妙な形の建物に住んでいるし、ガーデニングが好きな丸の内さんは、野原と呼べそうなほど広大な庭に野菜や花を植えている。陶芸の為の窯をこしらえた西嶋さんや、テニスの壁打ちをし続ける町田さん、その他十数人が、ドーナッツエリアと呼ばれる中心街周辺に居を構えている。
そして、それより先に住む人を、僕は一人しか知らない。変わり者を超えた異星人、それが兼光さんだ。
一人しか住人がいない僻地に、電車やバスが通っているはずもないから、自力で行くしか方法はない。初めて訪れると決めた時は、徒歩しか手段がないことに呆然とし、相当な覚悟を決めたのだが、実際に歩いてみると、五時間はかかる道のりも、珍しい景色に見とれたせいで、全く苦にならなかった。赤土の平地、雑草の茂るあぜ道、朽ちた廃墟が連なる奇妙な風景、全てが新鮮だった。毎度疲れ果てて辿りつく僕を見かねた兼光さんが自転車をくれてから、移動はより快適になり、更に頻繁にお邪魔するようになった。
持ち手に付けたコンパスが指す東にひたすら一二〇分進み続けると、兼光さんの自宅兼ラボに着く。見通しの良い平地にぽつりと建つ一軒家は、いつ見ても奇妙な外観をしている。
兼光さん曰く、生まれた時からずっと住んでいた思い入れのある土地で、死んでも離れられないらしい。だけど、そんなことはどうでもよくて、僕にとってはとにかく最高のラボなのだ。
*
玄関のチャイムを一度だけならすと、そのまま中に入る。出てこないのはわかっているから不必要にも思えるが、このひと手間が「礼儀」というやつだ。
リビングには入らずに細長い廊下を突き抜けると一番奥にあるラボへ進む。
「兼光さん」
部屋の半分を占領する鉄製の机の下の、こじんまりした塊に声をかける。
「調子はどうです?」
塊は返事をしないまま、がさごそと蠢いた。表面を覆ったもじゃもじゃとした白いものは髪の毛だ。つまり、これが兼光さん。起き上がれば長い髪の毛に埋もれた白い顔が現れて、きちんと人間の姿になる。実験中は、ラボでうずくまって仮眠をとるのが彼の日常だ。
「ちがう」
兼光さんは起き上がりもしないまま、すべりの悪い引き戸のような声を出した。寝起きだからじゃない。このかすれ声が、兼光さんの地声だ。
「何ですか?」
「そうじゃないだろ、俊」
兼光さんが声をワントーン下げるのは、僕に説教をする時だ。そしてそんな時、兼光さんはきまって一つ咳払いをした後にこう言うのだ。
「わかるか?」
兼光さんは何が悪かったのかをまず僕自身に考えさせる。その上で僕を説得し、納得させてから謝罪を要求するのだ。
出会った当初、常識というものが全くなかった僕を辛抱強く教育してくれたことに、今ではとても感謝している。社会性というものが全くなかった僕が、今では自然に人付き合いをこなすまでになったのは、全て兼光さんのおかげだ。
だけど、この件に関してだけは不服があった。
「わかってます。遅刻したのに謝らなかったから、怒ってるんですよね。だけど、僕、わからないんです。なぜ遅刻が駄目なのか」
「先人は、時は金なりとよく言ったもんだ。時間は大切なんだよ、俊。相手の時間を無駄にしてはいけない」
先人の言うことはもちろんわかる。時間が有限であれば、たったの一秒も無駄にしたくはない。それは当然だ。
「だけどさ、今は違うでしょう。僕たちの前には、無限に時間が用意されてる。永遠を手に入れているのに、無駄にするも何もないと思いませんか? 現に、兼光さん以外で、遅刻なんかで怒ってる人は見たことがない」
二三世紀。僕たち日本人は、医療技術の画期的な進歩により、既に永遠の命を手に入れている。不死は実現し、「死」という概念すら忘れられつつある。「死」という最大の恐怖から解放された民のほとんどは、常に穏やかで、怒りも悩みもせず、幸福な毎日を生きている。機嫌を崩す人を見ることも稀なのに、たかが遅刻で怒るなんて、兼光さん以外では考えられない。
「永遠だなんて、なんでわかるんだ?」
白い膜の中で、真っ黒な瞳がぎょろりと動き僕に向けられる。見えないけど、わかる。兼光さんの眼光はそれほど力強い。
「それこそ常識ですよ。政府が言ってる」
政府が掲げるスローガンで、ただ一つの公約。『一人一人に、永久に続く幸せを』これは新日本帝国ができて以来二〇〇年以上変わっていない。過去の日本には公約を破る政府もあったらしいが、現政府は違う。政府ができて以来、この素晴らしい公約は守りぬかれている。
「じゃあ聞くが、永遠ってやつはいつ証明できるんだ?」
兼光さんはいつもこうだ。政府のことが徹底的に嫌いなのだ。
「今までだってそうだったんでしょう。この先失敗することがあるとは思えない」
「絶対なんてな、そんなものはない。いつ何が起こるかなんて、誰にもわからんのだ。俊にもわからんし、わしにもわからんし、政府にもわからん。わからんもんを当然のように信頼するから、気が狂ってしまう」
「狂ってるって……」
兼光さんの口の悪さには、ほとほと参ってしまう。僕以外とはほとんど口を利かないのが唯一の救いだろう。他の国民からしてみれば、むしろ狂っているのは兼光さんだ。
「狂っているさ。幸せだと信じ、それに甘んじる生活を続けたせいで、自分で考えることができなくなっている。俊、お前はそうはなるな」
考えろ。
兼光さんはことあるごとに、僕に考えさせる。常識でも礼儀でも、この国の現状や、自分自身に対しても。そして、ちゃんと考えて出した答えなら、どうであっても口は挟まない。
「僕は考えていますよ。考えた上で、みんなが幸せだと思ってる。好きなことだけ好きなようにやっているんだ。幸せじゃないはずがない」
二二三四年現在、国民の義務は「生きること」それだけだ。後は、そのために付随する定期的な健康診断。仕事は全て機械化され、人間は労働から解放された。エネルギーは一括で管理され、生活は国が保証してくれている。一人一部屋与えられたマンションでは、家事の必要もない。
昔は国の保証が不十分な為に、一人で暮らすことが困難で、家族という単位での生活が強いられていたらしいが、今は国民一人一人が個人として自由に生活できる。ストレスは最小限に留められ、毎日を快適に過ごすことができる。その生活が不幸であるはずがない。
「じゃあ、俊はどうだ?」
「僕も幸せですよ。まあ、他の国民よりは少し不自由な生活をしてるけど、それが楽しくもあるし。兼光さんのおかげで、毎日新しいことを知っていける」
兼光さんの勧めもあって、僕は国支給のマンションを離れている。だから、毎日自分で掃除をするし、料理もする。ボタン一つで何でもできるマンションと違って全てがアナログなのだ。面倒ではあるが、楽しいこともある。自分で床を磨いてピカピカになった時の達成感や、作った料理がやけに旨かった時の感動は、機械頼みにしては感じることのできない感情だろう。
「そうか、なら良い」
そう言って黙ってしまった兼光さんとの沈黙に耐えることができずに、僕は情けなさを覚えながらも口を開く。
「謝ります。兼光さん。時間に対する認識が違っていても、遅刻して兼光さんを怒らせたことは事実だ。自分と相手の価値観が違っても、相手を尊重し、嫌なことはしない。それは相手に対する最低限の礼儀だ。それなのに、謝罪すら遅れてしまって、本当にすみません」
兼光さんは寝そべった体勢のまま、右手を差し出した。起こせ、ということだろう。両手で引っ張ると、だるまお越しの人形のように勢いよく飛び上がった。
「わかればよろしい」
皺だらけの顔に、更に皺を増やして兼光さんは破顔した。口元から白い歯が覗く。全てが老人らしい風貌なのに、歯だけやけに若々しいのは、数年前に新しいのに取り替えたからだ。身体の「取り替え」は拒み続けるくせに、歯だけは二つ返事で応じていたのが記憶に新しい。
離したばかりの右手を上にあげて、兼光さんは僕の顔を見る。僕が頷き、身を屈めると、頭を二回叩かれた。
「以後、気を付けるように」
これで僕は許された。兼光さんと知り合ってから、説教が終わる度に、彼は頭を叩く。初めは自然だったこの行為も、次第に兼光さんが背伸びするようになり、ついには僕が身をかがませるようになった。
腰を曲げて、背伸びして不安定な体勢になる兼光さんを見る度に、早く取り替えてほしいものだと、思ってしまう。
「兼光さん、話は変わるけど、いいかげん取り替えたらどうです?」
取り替え制度は、国民の健康を万全に保つ為、政府が提供するサービスの一つだ。通常は定期診断で警告された時に行われるのだが、申請すれば弱った身体のパーツはいつでも取り替えてもらえるはずだ。自己申請の場合、作るのに半年ほどかかるというから、早めに申請するに越したことはない。
「嫌だね」
即答する兼光さんに被せるように言葉を続ける。兼光さんの価値観は理解しているが、それでも心配なものは心配だ。
「僕こそ嫌ですよ。そんなよぼよぼの身体で怪我でもしたらと思うと」
「よぼよぼなんて失礼だな。私はね、この身体で生きていくんだよ。死ぬまでね」
「死ぬ、なんて」
世間では死語になったこの言葉を、兼光さんは頻繁に使用する。それこそが国を変えたいと願う兼光さんの、真の望みだ。兼光さんは、『死』を取り戻したいのだ。
「そんなこと言わないでくださいよ。僕は兼光さんに死んでほしくなんかない。まあ、死ぬってことがどういうことか、あまり想像はできないけど」
兼光さんは穏やかに微笑んだ。
「俊は、この国が好きか?」
何度も聞かれた質問だった。そして、その度に僕はこう答えている。
「好きですよ。僕は幸せだから」
「じゃあ、正しいと思うか?」
「それは、まだ、わかりません」
兼光さんに気を使ったわけではなかった。
僕は礼儀正しいだけの若者ではない。分をわきまえることも知っている。この国の是非を判断するにはまだ早い。知識も、思考も、感情すら乏しい。全てが若すぎる。
何しろ僕はまだ一八歳で、この国の最年少、かつ唯一の二桁なのだから。