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グランギニョルの蟲遣い -Insector's flood-  作者: 津上夏哉
第一章 正義の証明
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#08 『世界の裏側へ、ようこそ』


「信じられません。どうしても、納得ができません」


 静馬はうつむき、つぶやく。


「静馬くん」

「瀬川さんが言っていることが正しいというのは、分かります。僕があの男を見たというのは事実なので、否定しようがありません。あの血腥い臭いが幻臭だというのは、あまりにも都合が良すぎる。だから、すべて現実だってことは分かるんですが、それをまだ、自分自身が受け入れられない」

「……コーヒーが冷めてしまう。ゆっくり飲むといい」


 自身もコーヒーを嚥下し、空になったカップを小皿へかちゃりと置く。


「悲観的に考えることはないよ。僕や琴子くんも静馬くんと同じように蟲を発現し、生き延びてきたからだ。だから君が生き延びるために、僕らは精一杯の協力をさせてもらう」

「そーですよ! だから静馬さんはなんの心配もする必要はないんです!」


 琴子が笑顔混じりで言う。瀬川もにこりと笑い、再び口を開いた。


「蟲が発現してしまって、その脅威に耐え切れず蟲に飲み込まれてしまうことを、総称して僕らは『蟲化』と呼ぶ。蟲化してしまうと人間としての理性が失われ、代わりに蟲のような生き物が本来持つ『本能』が色濃く出て、生きるために他の生物を喰らおうとする。……静馬くんの見たあの異形の男は、ちょっと違うパターンだけどね」

「…………」

「そして、蟲が発現してもその脅威に耐え、蟲を制御できるようになった者のことを、僕らは『蟲遣い』と呼んでいる。蟲遣いは要するに、理性と蟲が均衡状態にある生き物……蟲でも人間でもない、その狭間に住まうモノだ。僕ら蟲遣いは、世界中で起こっている蟲の被害を減らすために、日々活動を続けている」

「……蟲っていうのは、そんなに大規模なものなんですか?」


 瀬川は肯く。


「蟲と人間の関わりは、もう一〇〇年以上続いている。北部アイルランド、欧州のフランスやポーランド、あとはロシアやアジア各国なんかでも、蟲の存在は確認されている。アメリカでもそれらしき生物が姿を現したと聞いたことがあるね。最近のニュースでも、世界各国で行方不明者が増えている、なんて話を聞かないかい?」


 静馬は、朝見たニュースや、新聞のことを思い返した。

 確かに隅の方に少し書いてあっただけだが、瀬川が上げた国で行方不明者が増加しているというニュースは見た覚えがあった。原因不明で、世界規模の集団によるテロと噂されている。日本でも同様の事件が、しばしば頻発しているという記事も目にした覚えがある。


「蟲というのは、発現した者にしか存在を認識できない、いわば認知されづらい病気のようなものだ。もしこのことを大々的に世間に知らしめようとしても、大部分の人が受け入れずにくだらないゴシップだと貶める。だから僕ら蟲遣いが、蟲の被害を未然に防ぐために全世界に発現した蟲を殲滅しているというわけなんだ」

「……でも、蟲っていうのは当人のトラウマを掘り返す……みたいな形で発現するんですよね。未然に防ぐなんてことは、出来るんですか?」


 今度は首を横に振る。


「残念なことに、僕らが未然に防ごうとしているのは蟲の発現そのものではない。蟲化した生き物が周囲に及ぼす影響だ。蟲は普通の人には視認できないと言ったけど、蟲化したモノだけは少し訳が違って、普通の人間にもその姿を目にすることが出来る。蟲化した生き物というのは、元を辿れば人間なわけだからね」

「そういう、ことですか……」

「だから、蟲の発現自体を抑えることは出来ない。だから静馬くんの身にもいずれ、蟲が発現してしまう。だけど大丈夫だ。その時は僕らが全力をもって、蟲の脅威を最小限に抑える。だから静馬くんは、自分自身が蟲を抱えているということを認識してくれていれば、それでいい」

「蟲を抱えている、ということ……」


 静馬はその文字列を、声に出して呟いた。


「そう言われると、なんだか蟲籠みたいですね。僕の身体というのは」

「……その表現は、言い得て妙だね。人間の身体というのは、いわば脆い蟲籠のようなものだ」


 カップを片付ける琴子を見遣りながら、瀬川は言う。


「蟲を閉じ込める媒体となり、蟲が容積以上に肥大化してしまえば、蟲籠が……人間の身体が、壊れる。過去に事件を抱える人間っていうのは、皆蟲を抱えている蟲籠だ。僕や琴子くんだって、いつその籠が食い破られるかわからない」

「……………………?」


 不思議そうな顔をして、瀬川のことを見る琴子。琴子もどうやら、蟲のことについてあまり理解が進んでいないようだった。


「くれぐれも気をつけていてくれ、静馬くん」


 脅しのように、淡々と事実を告げる瀬川。


その日(・・・)はおそらく、そう遠くはない」


 静馬は瀬川の話をを完全に受け入れたわけではなかったが、自らの身に迫る蟲という確かな恐怖をはっきりと認識して、小さく肯いた。

 蟲を発現するのは、過去に精神的ショックを受けるような出来事を経験している人だけ。

 その出来事が掘り返されれば蟲がその姿を現すという。

 静馬はおくびに出さなかったが、頭の隅では確かな記憶が蠢きはじめていた。

 忘れられない、遠い日の記憶が。





「静馬や、今日もご馳走を作ったぞ」


 それはまだ、静馬が小学校低学年だった頃の話。

 五歳の時に家が火事になって両親を亡くした静馬は、祖父のもとで育てられていた。

 昔から静馬にはめっぽう優しかった祖父は、静馬のためにと毎日毎日ご馳走を作っていた。

 初め食べた時は、不思議な味がした。

 幼い静馬は、爺ちゃんがご馳走だというものだから、高級な食材なんだと思った。そう思い始めてからはそれがとても美味しく感じて、毎日飽きるまで祖父特製の料理を食べていた。


 とても優しい祖父だった。

 そんな祖父に、静馬はいつも甘えていた。

 色んな愛情の形があるとは言え、静馬には優しい祖父だった。

 薄れていた記憶が、徐々に息を吹き返す。



          ◯



「……少しだけ、時間をもらってもいいかな」


 帰宅しようとしていた背後から、瀬川が申し訳なさそうに声をかけた。

 静馬は振り返る。


「ええ、いいですけど……まだ、何か?」

「うん。実はちょっと、会ってみてほしい人がいるんだ」


 そう告げられ、静馬が連れて行かれたのは、店の奥のさらに奥。

 奥に通じる廊下の突き当たりにある、店の雰囲気とは不釣り合いに豪奢な扉の前だった。

 古き日本を思わせる作りの建物の中に設えられた、洋風の装飾がされている黒い扉。ドアノブも金を燻したような加工がされていて、まるでこの扉と、その中の部屋だけが異界に通じているような、奇妙な気配を感じ取った。

 瀬川が静馬をここに連れてきたということは、つまりこの奥に会って欲しい人がいるというわけだ。静馬は少し息を呑んだ。

 瀬川の口調から察するに、会ってほしい人というのは「何か問題を持っている人」としか思えなかった。問題がなければ先ほどの話の時点で登場しているだろう。でも瀬川は何も触れなかった。

 そして、この店に居るということは、つまりはその人も蟲に関わりのある人物。

 蟲というものを非現実的で異常な存在として認識している静馬にとっては、その人は蟲よりも異常な存在に思えた。

 瀬川が三回、ノックをする。扉が重く鳴った。


「火澄くん。君に会わせたい人がいるんだ。入っても、構わないかな?」


 瀬川がその名前を呼んでも、火澄、と言う名前の人物は返事をしない。

 その代わりに、扉が内側から、ごんと一度だけ叩かれた。


「……いいみたいだ。静馬くん」


 瀬川が数歩退いて、静馬の斜め後ろに立つ。

 自分の手でドアノブを捻って、部屋の中に入ってほしいということなのだろう。静馬はそれを感じ取って、ひとつ頷くと前に進んで、ドアノブに手をかける。


(一体どんな人が、この中にいるんだろう……)


 鼓動が早くなるのを感じながら、ドアノブを捻って扉を押した。

 直後――部屋の中から形を持った闇が洪水のように溢れ出てきて、瞬く間に足元を満たしていった。

 不快な温度を持った粘質性のある闇が、膝下にまで纏わりつく。


「――――――っ!」

「大丈夫だよ、害はない」


 そう声をかける瀬川。

 これも、蟲の力というやつだろうか。静馬はゆっくりと扉を開いていく。

 扉は随分と分厚いようで、少し力を込めなければ開かなかった。

 そして扉が開いていく度に、溢れ出す闇の量も増えていった。

 ぐっと力を入れて、扉を開けていく。辺りはみるみる、闇に満ちていく。

 部屋の中に入って扉を閉める頃には、宇宙にでも放り出されたかのような闇が、視界の全てを埋め尽くしていた。後ろにあるはずの廊下も闇に覆われていて、墨の中に立ち尽くしているような感覚。真っ暗で、何も見えないはずの空間。

 しかし静馬は、はっきりと視ることが出来た。

 それは、静馬の目の前の暗闇。

 閉ざされた暗がりの中に、静馬の背丈ほどもある大きな一つの墓が、聳え立っていた。

 本来名前が彫られている部分は、たくさんの傷がつけられていて読むことが出来ない。それ以外の情報は何もなく、供え物も何もない普遍的な形の墓石が、部屋の中に在った。

 静馬は、その上に腰掛けている何者かの存在に気がついた。


「――――貴方が、この街に棲まう異形の拠り所?」


 黒く染まった空間に、底冷えする女性の声が響く。

 声はひどく冷淡なものだったが、いわゆる大人のものではなく、どこか幼さの残る少女性も感じられた。何より、声はとても近くから発せられたように感じた。

 墓石の上で足を組んで座っている影に目を向ける。

 暗黒の満たす世界でも、その姿は、はっきりと視認できた。

 裾をレース状に仕立てられた、黒のロングスカート。気品を感じさせる、黒のネクタイが締められた白のブラウス。腰ほどまで伸びている黒い髪を、左右で結わっている真紅のリボン。透き通るように白い肌と、静馬を見下ろしている二つの金色の眼。


「私は能美火澄(のうみかすみ)


 暇を持て余して足を揺らす少女は、薄く口を開く。

 履いている黒いヒールの靴が合わさって、かつん、と鳴る。


「貴方は殺す側? 殺される側? それとも、どちらでもないかしら」


 緩慢な動作で目を細め、少女は嘲笑うように微笑む。微笑みと形容したが、その嗤いは殺人鬼が素性をばらした時のような冷酷さと、獲物を見つけた時の悦びで満ちていた。


「私は殺す側。蟲を殺すためだけの存在。そういう風に生まれ、そういう風に生かされた。今までも、これからも。だからこうして私は闇に棲んでいる」

「貴方はどちら側の人間?」


 少女の声が、座っている場所とは別の方向から投げかけられる。

 まるでこの暗闇には何人も、その少女がいるように。


「蟲遣いは闇に棲む住人。その覚悟がなければ蟲遣いにはなれない」

「蟲遣いになれなかった人間はどうなる?」

「決まっている。みんな、蟲に喰われて、蟲になる」


 クスクスと、気狂いしてしまいそうな嗤い声が反響する。


「貴方が蟲になるか蟲遣いになるかは貴方次第」

「でも安心して。貴方がそのどっちになろうと、私は貴方の味方」

「もし貴方が蟲になっても、私がすぐに殺してあげる」


 静馬は身動きが取れなかった。

 いや、違う。闇に四肢が、身体が絡め取られていた。

 夜色に染まった少女が、暗闇とともに静馬を抱擁していた。






「世界の裏側へようこそ――――秋月くん」


 それが、闇に生きる少女、能美火澄との出会いだった。

 侵蝕は急激に――――加速していく。

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