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グランギニョルの蟲遣い -Insector's flood-  作者: 津上夏哉
第一章 正義の証明
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#06 『そのための蟲』

 突如、背後から男の声が投げかけられた。


「…………っ!?」


 油断していた静馬は、慌てて背後を振り返る。まさか自分の背後に人が立っているだなんて思いもしなかったし、何よりもその男の声は凍りつくほど神妙だった。

 静馬の後ろに立っていた、上背の高い男の姿が露になる。

 男はビジネス・フォーマルからジャケットとネクタイを脱ぎ捨てた、ラフな出で立ちだった。

 ベルトの代わりにサスペンダーを使っているので、どこか大時代な格好にも見える。中折れハットを被った頭からはぼさぼさと白髪交じりの短い茶髪がはみ出していて、薄く開かれた目は一見眠たげなようにも見えたが、眉根を寄せている様子をかけ合わせると、まるで静馬に対して敵意を剥き出しにしているようにも見えた。

 右手は、黒い手袋がはめられていて。

 左手は、懐中時計のようなものを握りしめている。


「何度も問うている時間がないんだ。答えてくれ」


 男は口をゆっくりと動かすと、左手に持っていた懐中時計をポケットへ仕舞った。


「君には今の、何かを引きずるような音が、聞こえているのかい?」


 そこでようやく静馬は、男の設問が耳に届いた。

 明確な殺意は感じ取れない。昨夜見た、あの異形とは訳が違うようだった。

 じっと動かずに、答えを待つ、外套を纏う男。

 静馬は息を一つ飲み、受け答える。


「……聞こえます。ごり、という何かを引きずっているような、硬い音が」

「そうか」


 静馬の答えを聞くと、男は悲しそうに微笑んだ。


「悪いことは言わない。君が今まで見た不可思議なもの、それら全ての存在を見なかったことにして、一切合切を忘れ去るんだ。そうすれば君には何も起こらないし、何も失わない」

「え、それは一体どういう……」

「今言った通りだ。もし君が、僕の言ったことに従わないというのなら――」


 男は、目を細めて。


「残念だけど、僕は君を殺さないと(・・・・・)いけなくなる(・・・・・・)かもしれない(・・・・・・)

「――――――!?」

「さあ行くんだ、早く」


 男の声が、急激に凄みを増した。静馬は心臓が跳ね上がる思いになったが、逃げるよりもまずやらなければならないことがあると考え、その場に踏み止まった。

 今、眼前に立っている男。

 この男は明らかに、かの異形のことを知っている。


「待ってください。今まで見た不可思議なもの、って言いましたよね」


 男は口を引き結び、廊下の方を気にしながら静馬を見る。


「実は昨夜、僕はここではない違うマンションで、それを目にして――――」


 言葉を紡ごうとした静馬。

 だが、そこから先は、発することができなくなってしまった。


 ごり、


「あ………………」


 階段の上に、見えてしまった。

 あの、異形の頭が。

 眼球を失った、虚ろな眼窩を持った、あの異形の姿が。


「おっと、もうお出ましか……参ったな」


 だが、その異形を目の前にしても、大正時代を現実に描き出した格好の男は、やれやれといった様子で少しも焦っている素振りは見せなかった。

 むしろ、言葉の調子からは余裕さえも見せているように感じた。


「仕方ない。どうやら既に一度遭ってしまっているようだから、今さら引き返せというのも酷だろう。どちらにせよ、ここまで来て逃げようものなら野垂れ死にしてしまう」


 男は静馬を一瞥し、右手の手袋に手をかけながら言った。


「簡潔に言うと君は今、生死の瀬戸際に立たされている」


 粛々と、言葉を重ねる。


「これから君が見ようとしているのは、非現実的な非日常の光景だ。これを見たからには、君にはたった二つの運命しか用意されていない。一つは、何による脅威なのか分からず死に至る運命。そしてもう一つは、いずれ来る死に怯えながら、毎日を生きていく運命。この二つからは、逃れることはできない」


 一拍置いて、男は言った。


「無抵抗に死ぬか、這いつくばってでも生き延びるか――。二つに一つ。さあ、選ぶんだ」

「………………!」


 その言葉を聞いた瞬間。

 走馬灯のように、静馬の頭に、ある日の言葉が蘇った。






『静馬。これだけは覚えておいて欲しい。もしも君がこれから選択を迫られて、それが命にかかわるようなことだった場合――――』


 まだ静馬が、幼い子どもだった頃の記憶。

 静馬が五歳の時に命を落とした両親が、日頃言い聞かせていたこと。


『その選択肢が何であろうと、君は生きるんだ。頼む、生き延びてくれ。静馬』


 いつも優しい両親が、それを口にする時だけは真剣な表情になっていた。

 幼心にして静馬は、言葉の重みを理解していた。

 どうして両親が、そんなことを言っていたのかは分からない。だが静馬が誰よりも信頼していた両親の言葉は何よりも正しいと信じていたし、両親が火事で亡くなってからは、いっそう信じる気持ちが強くなった。

 だから静馬は、口にする。




「…………生きたい」


 微かな恐怖に打ち震えるように、淡々と。

 ほぼ無意識に、静馬は言葉を発した。


「こんなところで、僕は死んではいけない。生きないといけないんです」


 両親の想いを反故にしないためにも、自分は生きないといけない。

 その思いを汲み取ったのか、男は帽子を深く被り直して言った。


「なるほど。静馬くん、きみの覚悟はしかと了解した」


 不意に名前を呼ばれ、静馬はハッと顔を上げる。

 なぜこの人は、僕の名前を――――


「今は下がってくれ。君じゃどうしようもない奴が、ここにはいる」


 男が一歩後ずさりするのを見て、静馬は忘れかけていた存在を思い出した。

 異形。

 人間の形を留めていない、猛烈な異臭を放つ異形。

 それがもう、静馬と男の目と鼻の先にまで迫っていたのだ。


「………………!!」


 鼻が曲がってしまいそうな、強烈な血腥さ。

 全身を走る恐怖で、静馬は身動ぎ出来なくなった。

 震える手で、ぎゅっと制服の裾を握る。呼吸が荒くなって、心臓が早鐘を打ち、弾いていた汗が、また一気に噴き出してきた。


「静馬くん。君の過去にどんなことがあったのか、僕は何も知らない。当然、君にとっての僕もそうだ。だからその記憶を掘り返さないよ。思い出さなければならないのは、君自身だからね」


 異形の手が、男の肩へ。


「あぶ、な…………!」

「大丈夫、何も心配することはない」


 男が手袋を取り、赤い金属のようなもので形作られた右手を露出させる。


「異形を屠る――――そのための蟲が、ここにいるからだ」


 刹那、男の右手が、高熱を以て赤く光を帯びた。




「〈俺の道を閉ざすものは、此処で消え去れ!〉」




 男が詠唱するように叫ぶと、右手に集結していた金属のような赤い何かが散り散りになって、まるで蟲が飛ぶように異形へ襲いかかった。

 その赤い群生の勢いを喩えるならば、大口径の火炎放射器。

 轟、と空気を唸らせる、夥しい量の蟲が。

 巨大な焔となって、異形の男を包み込む。

 瞬間――――蟲がその輝きを増して、燃え上がった。


 ――――ぐわああああああああああああああああああああああ!!


 鼓膜を劈く叫び声と共に、異形の肉体が燃え上がる。

 火達磨となった男は手ならざる手で頭を押さえ、階段の上で暴れ回った。

髪の毛が燃える嫌な匂いが立ち込める。剥き出しになっている眼窩へと次から次に蟲が入り込み、その深淵で真紅の炎を燃え上がらせている。よく見ると男の表面に貼り付いた異常な量の蟲が、自身を発火させることで男を燃やしているのだと視認することが出来た。

 血肉に塗れていた男の身体が、段々と真っ黒に、炭へと変貌していく。


「〈まだだ〉」


 蟲を放った男が底冷えする声で言うと、異形を包む炎はさらにその火勢を増し、甲高く響いていた叫び声は徐々に薄れていく。

 倒れこむように転がった異形は、段々とその身を小さくして行き――――そして男が蟲を放ってから一分足らずで、静馬が昨夜目にした異形は、人間の形状をした黒い炭の塊と化した。


「まあ、こんなものか」


 そう呟くと、炭に集っていた蟲が空を薙いで、一瞬で男の右手まで戻ってくる。

 途端、辺りを包んでいた熱気も、異形を覆っていた凄まじい勢いの炎も、あっという間に消え去って、少しぬるい空気の包む四月の夜へと元通りに姿を戻した。

 何が起こっているのか、静馬は全く理解できなかった。


「……これは〈発火蟲〉と言ってね」


 目の前に立つ男も、そんなところだろうと察知したのか、説明的に口を開く。


「自らの体温を際限なく上昇させることができる〈蟲〉だ。その気になれば、一匹口の中に放り込むだけでも、相手を消し炭にしてしまえる。雨の影響だって受けることはない」


 元通り手袋をはめながら、ふうと一息ついた。


「静馬くんの持つ蟲が一体どんなものなのかはまだ分からないけど、どうやらあれが見えているってことは、今回の〈発現〉に関わりが深いのかもしれないね」

「ちょ、ちょっと待って下さい」


 饒舌に話す男を遮って、静馬は焦り気味に言った。


「いくらなんでも、説明が少なすぎます。あの明らかに異常な男は何者なんですか? どうして僕の、名前を知っているんですか? 蟲っていうのは、一体何なんですか? 発現というのも、あまり良く分からないんですが……」

「説明するのに、ここでは骨が折れるだろう」


 男は右手に黒い皮の手袋をはめると、静馬の方を向いた。


「君の覚悟は既に聞いた。生きる意志があるのなら、僕についてきてほしい。嫌だというのなら、もちろん来なくても構わない。ただ――――」


 愛想の良い目が、少しだけ細められる。


「もし、君の蟲が発現してしまったならば、僕が静馬くんをこの手で殺す可能性はある、ということも気に留めておいてほしいね」

「………………」


 静馬は息を呑んだ。

 男は静馬のことを、まるで蚊でも殺すかのような軽い口調で、殺すと言った。それを聞いて、静馬は「男にとってはそれが当たり前」だということ理解した。


「僕の名前は、瀬川祐二(せがわゆうじ)


 男――瀬川は薄暗い空を背に、帽子を深くかぶり直した。


「この三城市の片隅で、〈蟲〉に関する調査をしている者だ」

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