#05 『暴かれた空室』
二人は今、三城団地Aの前に立っている。
昨日静馬がやって来たマンションとは全く違う構造で、階段はついているが場所は端っこで、見える踊り場には怪しい人影など微塵も見えなかった。マンションの住人が行き来しているだけである。
「ここでその、変なモノを見たんだよね」
「う、うん。間違いないよ」
未咲は何の躊躇もなく、階段を上っていく。静馬も恐る恐る、その後を追う。
階段からは、血の匂いなど微塵も感じられないどころか、そもそも構造や段数が異なっていた。踊り場は狭く、人二人が何とかしてすれ違えるかといった所。昨日見かけた踊り場は、人が寝そべっても余裕が有るくらいには広かった。
(勘違い……だったのかな)
すっかり恐怖が薄れてしまった静馬は、段飛ばしで階段を上る。
「あれ、おかしいなあ」
部屋の前の通路では、ひと足先に着いたらしい未咲が頭を傾げていた。
「何かあったの、雛沢さん?」
「いや、それがね。チャイムを鳴らしても、誰も出てこないのよ」
書かれてある部屋番号は二〇五。件の生徒の家に間違いはなさそうだ。
「留守なのかな。偶々、家族で何処かに出ているとか」
「引きこもりがちな子どもを、わざわざ外に連れ出すのかしら」
うーんと唸りながら、未咲はダメ元で玄関扉のドアノブを捻った。
そうすると、カチャ、と。
「…………、開いてる」
未咲は、ぱっとドアノブから手を離してから、静馬を見て呟いた。
「……居留守、なのかな」
「ともかく、ちょっと入ってみよう」
え、と静馬がこぼした時には、未咲は玄関扉を開け、「ごめんくださーい」と中へ入って行った。静馬はいくらか逡巡したが、ごめんなさいと見えない誰かに謝りながら、二〇五号室の中へ踏み込んだ。
直後。
あのむっとした血腥い臭いが、油断していた嗅覚を襲った。
「っ――――――――――――!!」
静馬の脳裏に、在りし時の光景がまざまざと蘇る。
あの階段の踊り場で感じた、嗅覚を猛烈に刺激する鉄錆じみた臭いと、凄まじい腐乱臭。
勢い余って胃の中身が逆流しそうになり、静馬は鉛のような息を吐き出しながら口元を押さえた。じくじくと、全身に鳥肌が立つ。脂汗が噴き出してきて、静馬はその場にしゃがみこんだ。息が整わなくなる。
部屋の中に満ちていたそれは、正しくあの異形が発していた臭いそのもの。
まさか、この部屋にも同じモノが――――
「……秋月くん? 大丈夫?」
呼び起こされるように、肩を叩かれる。
はっとして顔を上げると、心配そうな面持ちの未咲が静馬を見下ろしていた。
「まだ、体調が芳しくないんじゃないかしら。顔色がひどく悪いけど……」
「い、いや大丈夫だよ。ちょっと立ちくらみがしていただけ」
静馬は取り繕って答える。
そう、と言う未咲はまだ心配そうだったが、静馬は笑顔で応じた。
臭いは幻覚のように立ち消えていた。
生肉が腐った、吐き気を直接刺激する臭いは跡形もなく消え失せていて、代わりに部屋の中には玄関近くに置かれた、ラベンダーの芳香剤の香りが広がっている。
ひどく殺風景な部屋だ。
芳香剤以外に、玄関には何も小物が置かれていない。靴箱もなく、ボロボロになったサンダルが一対脱ぎ散らかされているだけ。長らく掃除もされていないのか、砂汚れが堆積している。
ただ、奥に続く廊下にはチリひとつ落ちていない。玄関には人が住んでいる痕跡がかすかに残っているが、それ以外からは廃墟に近い雰囲気が漂っている。
「……なんだか、人が住んでいるようには思えないね」
学校から持ってきたらしいスリッパを履いて、未咲は廊下を歩いて行く。
静馬はまったく遠慮のない人だと思う反面、自分の前にいつの間にか置かれているスリッパを見て、すごくしっかりした人だなあとも思う。
未咲は同じ風紀員である静馬から見ても、とても正義感や誠実さにあふれている人間で、風紀委員にはうってつけと言える存在だ。自分の行っていることが正しいと認識しているから、何事にも迷いがないのだろう。
静馬もスリッパに足を入れ、奥へと進む。
未咲が途中にある部屋のドアノブを捻っていたが、こちらは鍵がかけられているようだった。静馬のそばにあるトイレの扉も、鍵がかかったままだった。異端めいた何かを感じられずにいられなかった。
玄関は開いているのに、部屋の中にある扉は鍵がかけられている。部屋は本当に人が住んでいるのかと思うほど生活感に欠けていて、不自然なほど静かだった。
時計の針の音や、水槽のモーターの音といったものも全く聞こえてこない。
しん、と静まり返った空間に響くのは、二人分のスリッパが床を鳴らす音だけ。
程なく未咲と静馬は、奥にあるリビングへとたどり着いた。
「本当に、なんにもない部屋、ね……」
未咲がそう漏らしてしまうほど、生活の軸であるはずのリビングは殺風景だった。
一〇畳ほどの広さを包む真っ白な壁紙に、フローリングを敷き詰めた床。真ん中には木製の長方形テーブルが置かれていて、二人分の椅子が対面する形で置かれている。床続きになっている奥の台所は、古びた冷蔵庫が置かれているのと、油汚れの溜まったガスコンロの上に空の鍋が置かれているだけ。
本当に、それだけの部屋だった。
人の生活感など全く感じられない、廃墟と呼んだ方が良さそうな部屋。ここに見知った同級生が住んでいるなど、とてもではないが信じられない。
「もしかしたら、学校に連絡せずに引っ越したとか、そういうことがあったのかな」
「あー……引きこもっていたから、新しい環境に連れて行った、みたいな?」
「そうそう、そんな感じ」
他の部屋への鍵が全てかけられていることを確認しながら、未咲は言った。
「だとしても学校に連絡なしにこんなことするのはおかしいけどね。それに彼女って確か、一年の時はそこまで内向的ではなかったはずだったから……どうにも腑に落ちないわ」
こんこんと、部屋の壁を叩く。それに関しては静馬も同じことを思っていた。
立て続けに休んでいる女子生徒は、物静かではあったが陰鬱というわけではなく、どの生徒とも別け隔てなく接する明るい人物像があった。彼女が学校に全く来なくなった時、クラスの誰もが驚いたものだった。彼女に関するいじめの話など、小耳に挟んだこともなかったからだ。
それなのに不登校になってしまう、ということは。
「家庭の事情か、何かかな」
「そう考えるのが、一番しっくり来るかも」
うんうんと二人は肯いた。
人には言えない家庭の事情があって、そのため学校に連絡することなくどこか違うところへ引っ越した。そう考えなければ納得がいかなかったので、勝手に結論づける。
未咲はそれでいいかもしれないが、静馬はまだ気がかりな点が一つ残っていた。
扉を開けた時に漂ってきた、あの時と同じ血腥い臭い。
こればかりは幻と断言することはできなかった。
「……どうする? とりあえず荷物は持ち帰って、先生に報告する?」
「そうね。とりあえず今日のところは退散しようか」
だがそれを、未咲に対して打ち明けることは出来なかった。
未咲はまだ、血腥い臭いを感じている気配を見せていない。つまりそれは静馬の感じた臭いが欺瞞であることを如実に示している。今ここで「変な臭いがした」と言っても、さすがの未咲でも信じてはくれないだろう。昨夜の時とは違い、静馬とともに行動しているのだから。
二人は靴に履き替えて、部屋を後にする。
夕陽はようようと山際に近づいていて、もうすぐ夜がその姿を見せようとしていた。
「おっといけない。私、早く家に帰ってご飯作らないといけないんだった」
未咲が腕時計を確認して、申し訳なさそうに片手を顔の前に出す。
「ゴメン秋月くん、私急ぐから先に帰るね! 今日はお疲れ様!」
「ああ、うん、ありがとう」
手を振って、慌てた様子で階段を駆け下りていく未咲を見送る静馬。
遠くではウグイスではなくカラスが鳴いていて、家が欧風街の方にある静馬も、急がなければ帰り着く頃には辺りが真っ暗になっていそうだった。
午後六時を告げる鐘が、からぁんと鳴く。
「僕も早く、帰ろうかな」
読んでしまいたい小説もあるし、とぼやきながら、静馬も階段を降りていく。
怪我をしてはいけないから、一歩ずつ。とん、とんと降りていく。
一歩ずつ、一歩ずつ――――
カァ、
カァ、
――――ごり
背後から、何か硬いものをアスファルトの上で引きずったような音が聞こえた。
ちょうど踊り場辺りで、静馬は階段を降りるのを止める。ほどけかけていた緊張が、一気に張り詰めた。
しん、と静まり返っている中に、突如響いたその音。今さっきまで静馬と未咲がいた部屋前の廊下には、二人以外誰もいなかったはずだった。もちろん、ドアが開いた音も聞こえてこなかった。だから今、この辺りには静馬以外の人間はいない。
そう。
静馬以外の――――人間は。
「……………………………………」
あの時と同じだと、静馬はいくらか落ち着いた頭で考えた。
あの時も少し異質な空間に妙な音が聞こえて――その後見るも凄惨な異形と対峙することとなった。
『あれ』を一度目の当たりにした今では、ある程度の予測がついていた。
そして同時に、その予測が現実的に考えておかしなものだと思った。
階段の上に、何かが居る――――
そう確信した静馬は、今度は躊躇することなく、頭をもたげる。
しかし、そこには廊下の柵が見えているだけで、血を流した異形の姿などはどこにもない。
だからと言って油断してはいけないと、静馬は肝に銘じていた。
一度だけ大きく深呼吸して、階段を降りる。
一歩ずつ、一歩ずつ――――
ごり、
音のする、その方向から。
静馬が遠ざかろうとしていた、その時だった。
「まさか君は、聞こえているのかい?」