#03 『愛すべき日常』
春の暖かい風が、通学路に吹いている。桜はもう見納めのようで、気の早いものは既に葉桜の化粧を終わらせている。足元のアスファルトには、人や獣に踏み潰された花びらが張り付いている。ウグイスはまだ盛んに鳴いているものの、風景だけならもう初夏と言ってもおかしくない。四月半ばだというのに、学ランを着ていると暑くて首元を扇ぎたくなる。
至って平和な雰囲気が漂っている、欧風建築が顔を揃えた通学路。
「………………」
昨夜の出来事を思い出しながら、静馬は通学路を一人歩いていた。
早朝ということもあり、たまに朝練に急ぐ部活生を見かけるだけで、学生の姿はほとんど目につかない。郵便配達員の赤いバイクや、犬の散歩をする年配ばかりが視界を横切る。静馬はいつも学校の開くギリギリに登校するので、見慣れている光景だった。
あんなモノを見てしまったばっかりに、この平和すぎる光景が異様でならなかった。
早朝のニュースをチェックしたが、めぼしい物は何も取り上げられていなかった。男性が行方不明になった事件の類いも一切報道されず、学校の準備をしてアパートを出るまで、結局メディアからは何の情報も得られなかった。
立ち寄った小さな売店で、いつものように無糖のコーヒーを買う。甘いものが嫌いというわけではなかったが、最近はなぜかブラックコーヒーを手に取る機会が多くなった。
ついでに、いつもは買わない新聞も手に取る。
選んだのは全国紙ではなく、三城合同新聞。この街だけで売られているローカルな新聞だ。物好きな人でもない限り売れることは滅多にない。その代わり、かなり地元寄りの記事も載っている新聞だ。三城市で発生した事件に限って、この新聞に掲載されないなんてことはまず有り得なかった。
そもそも呆れるほど治安の良い三城市で、事件なんて滅多に起こらないのだが。
「おばちゃん。昨夜何か、不思議な事件とか起こらなかった?」
会計を済ませた後、静馬は椅子に座っている店主に尋ねる。
「事件?」
「うん。誰かが行方不明になったとか」
「この辺りは平和だから、事件なんてなあんにも起こっちゃいないよ」
店主のおばちゃんは眠たげな目を擦って、酒やけしたハスキー声でそうとだけ答えた。
静馬はふうんと声を漏らし、会釈して店を出た。
さすがに通学途中に新聞を読むと危ないので、小脇に挟む。
「やっぱり、あれは幻だったのかな……」
コーヒーを嚥下しながら、うわごとのように呟いた。
半日経った今でも、鮮明に思い出すことができる。
不快という言葉では表現できない、男の形をした肉塊。溢れ出る鮮血。噴出していた、黒色の何か。それこそ絵に描けるほどはっきり記憶に残っていたが、そんなことをしようものなら抑えきれない嘔吐感に襲われそうだったので、静馬は思い出すだけにとどめていた。コーヒーはいつもより苦く感じる。
静馬の住むアパートから直線上にある、三城清州高等学校、通称三高の校門が見えてくる。それほど距離はないので、遅刻したことは一度もない。もとより朝早くから学校に来ているので、少し遅く目覚めたぐらいでは遅刻などするはずもなかったのだが。
三城清州、と名前の彫られた校門をくぐり抜けて、スロープを上がる。
三高は地盤が高いところに建てられていて、校舎までたどり着くには数十メートルはあるスロープを登っていかなければならない。
一見通学には不便そうにも思えるが、放課後、陸上部が坂ダッシュなどの練習に使っているのを見かけると、通学以外に利点があるようだった。しかし雨や雪の日は足元が滑りやすくなるので、通学においては不便の一言に尽きる。
昇降口ではちょうど今鍵が開けられたようで、解錠担当の教師が校舎の中へ引っ込んでいくのが見えた。静馬は、ぎ、と音の軋む扉を開く。
外から見るとかなり現代的な建築で幾分新しく見える三高。だが、そう見えるのは最近建て替えられたばかりの一番外側にある上級生用校舎――つまり三学年の生徒の居る校舎で、一年生、二年生校舎それぞれは相応に老朽化が進んでいる。見栄えを良くするためにもまずは一番外側から改築していくとのことで、一番内側にある一年生校舎が建て替えられるのはまだまだ先の話だった。
今、工事の作業が進められているのは二年生校舎。早朝にはあまり見かけないが、放課後になるとヘルメットを被った作業着の姿がそこかしこに見られていた。
靴から青のスリッパに履き替え、教室のある二階へ向かう。
「………………」
階段の踊り場へ、自然と釘付けになる。
そこには何もいないと分かっているのに、反射的に凝視してしまう。
歩を進め、パタン、と一段目に足をかけた。
だからと言って異形が目の前に現れることはなく、スリッパがリノリウムの床を打つ音だけが、まだ静かな校舎の中に響き渡っていく。
恐ろしいまでに静謐に包まれ、何も起こらない日常。
当たり前のはずなのに、静馬は膨らむ不安を抑えられずにいた。
教室の席に腰を下ろし、新聞を開く。
一面はニュースでも報道されていた汚職事件の記事。ご当地アイドルの熱愛、地元市議会議員の暴言問題といった細々としたものまで記載されているが、「男性が原因不明の死を遂げた」という文言のニュースは、どの面にも書かれていない。
期待はずれ、といった調子で静馬はため息を吐く。
それは同時に、安堵も孕んでいた。
やはりあの出来事は、自分以外は誰も経験していない。あれは疲労の産んだ幻だ。風紀委員としての仕事に没頭しすぎたがゆえに、ぼんやりと深層意識に夜の闇が干渉したとか、よく分からないがそういうことに違いない。
無理やり自分を納得させ、静馬は新聞を畳む。
それとほぼ同時に、教室へ他の生徒が入ってくるのが見えた。
「あら、相変わらず早いね秋月くん」
「うん。おはよう、雛沢さん」
教室に入ってきたのは、笑顔がほころんでいる女子生徒。
静馬と同じく風紀委員で、かつクラス委員も兼任している雛沢未咲だった。
茶の髪を肩下ほどまで伸ばしていて、表情はおしとやか。長い前髪は髪留めでこめかみ辺りに留めている。風貌はいわゆる美人に属する女子生徒で、校内でなかなか人気があるという話を静馬は耳にしていた。
未咲は静馬の二つ前の席へ横向きに座ると、静馬の方に顔を向ける。
「昨日はゴメンね。荷物を届けるのに同行できなくて」
申し訳なさそうに言う、未咲。静馬は小さくかぶりを振った。
「いや、実は僕も昨日、体調が悪くなってしまって、結局まだ届けられてないんだ。だから雛沢さんが謝ることはなにもないよ」
「そうなの? それはお大事に……」
少しだけぎこちなく言う静馬に、未咲は何も気づいていないようだった。
内向的な性格がゆえ、あまり人付き合いのない静馬だったが、未咲とは一年生から風紀委員で幾度も顔を合わせてきたため、大分打ち解けていた。
信頼の置ける、話の出来る友人がいるというのは学校生活を送るうえで安心感があったが、それが女子という点もあって、静馬はよく未咲と付き合っているんじゃないかという噂をもちかけられた。
当然それは否定した。委員会の作業のためにしばしば行動を共にすることがあったため、仲もほどほどに良かったのだが、未咲に恋愛感情を抱くことはなかった。
それは恐らく、未咲も同じ。
気の置ける信頼関係にあるのが、たまたま異性だったというだけだ。
「じゃあ、今日の放課後にでも届けに行きましょう。今日は私も一緒に行くから」
「ああ、うん、ありがとう」
それ以上会話が弾むことはなく、未咲は自分の作業に戻る。
静馬も畳んだ新聞を鞄の中へ仕舞った。
「………………」
恐ろしいほどいつも通りの日常だ。
静馬は述懐した。やはり昨日見たモノは単なる幻覚だったのだ。そう確信出来るほど、静馬の周りは【普通】で満ちていた。
不思議に思う必要などなかった。
これが秋月静馬の愛する、日常なのだから。
人知れず笑みを浮かべ、いつも通り静馬は、一限目の授業の予習にとりかかった。