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グランギニョルの蟲遣い -Insector's flood-  作者: 津上夏哉
第一章 正義の証明
3/55

#02 『羽音』

「――――――――――――っ!!」


 閑静な住宅街に、声にならない悲鳴が響き渡る。

 男の顔からは在るべき眼球がもろとも欠け落ちていて、代わりに眼窩からは湧き出るがごとく多量の血が溢れだしていた。

 踊り場に立つそれは、大人の男性の形状を真似ているようである。

 だが、それは辛うじてそうと分かるだけで、原型はほとんどとどめていない。

 頭髪はほとんどが抜け落ちて、血に塗れた身体や地面に張り付いている。皮膚の表面は刃物で削ぎ落とされたように、大部分が皮膚の奥の赤黒く腐食した中身を露出していて、曲げた肘の部分は耐え切れずに骨が露出していた。手足の指はことごとく抉られており、むき出しになった骨に乾いた血肉がびっしりとこびりついている。顎が外れ、大きく開かれた口からも滝のように血液が垂れ落ち、その中からは時折固形の何かが、ごぼっと吐き出されては階段の上に身を落としていた。

 そして、

 辛うじて立ち尽くしているだけのそれは、完全に視覚を失っているのにもかかわらず。

 ぎっ、と鮮血を吐き出す眼窩を、静馬に向けている。


「あ…………ああ………………」


 射竦められた馬は、動かない足を震わせ、階段の手すりにもたれかかった。

 暗がりの広がる踊り場の中で、異形は酩酊した人間のように首を激しく揺らし、今にも倒れてそうなほど大きくよろめいていたが、顔と思われる部分にある真っ黒な二つの眼窩だけは、ずっと静馬を凝視していた。

 違う、そうじゃない。静馬は静かに感じ取った。

 眼がないにもかかわらず、僕のことを見ているのではない。

 そこに僕がいるということが、分かっているのだ。


「に、逃げ…………」


 言い聞かせるように静馬は言葉の端を漏らすが、そこから先は声にならなかった。

 声帯が痙攣でも起こしているのか、うまく言葉が出てこない。鉄臭く淀んだ空気と目の前の光景に毒されて、身体が本能的に呼吸という行為を拒絶しているのかもしれない。少しでも無理に声を発すれば胃の内容物をぶちまけそうな気分になり、静馬は再び口を押さえる。

 気付いた時には、異形の目線は静馬からは外れていた。

 骨格標本に乱暴に肉を貼り付けたとしか思えないそれは、まるで肩の力を抜いて天を仰いでいるようにも見えた。首の皮が引っ張られて穴が空き、喉仏が剥き出しにされている。ひゅう、ひゅうと息の漏れる音も聞こえてきた。


 ――――僕のことを、襲おうとしているわけではない……?


 静馬は混濁しそうな意識を鎮めながら、極めて冷静に考えた。

 今、目の前に立っている異形は、既に静馬のことを見ていない。

 それどころか、歯牙にもかけない様子で空を見ている。おそらく静馬のことを認識はしているので、襲いかかろうと思えば襲いかかれるはずだ。わずかも静馬の方に近付かないところを見ると、それの目的は違うところにありそうだった。

 だが、目の前の状況が極めて異端であることには変わりない。

 静馬は一度深呼吸をすると、足が動くことを確認し、一歩、男から退いた。

 男は何の動きも見せない。静馬はもう一歩下がる。

 さらに、一歩。

 人間の形をした肉塊は、ぴたりと動きを止めている。

 ギリギリのところで精神を保っている静馬が、気付くはずもなかった。

 滝のように溢れ出ていた血液が、いつの間にかその流れを止めていたことに。


「とにかく、逃げよう……」


 言い聞かせるように呟く。

 届け物のことは完全に頭から抜け落ちていた。今、遭遇している光景から逃げることが、何よりも優先順位が高い。あとで、体調が悪くなっただの言い訳をして、許してもらうしかない。

 震える足で後ろへ下がりながら、静馬は踊り場に立つ男を見た。

 そして――――変化に気付く。

 軽いパニック状態になっていて耳に入ってきていなかったが、耳を澄ますと、男が小さく呻き声を上げているのが聞こえた。

 犬の威嚇のような低くこもった声。喉の辺りの中身が見えている所為で、声が聞こえる度にその辺りが小さく震えているのがわかった。

 一体何なんだ、と静馬は眉をひそめて後ずさる。

 その時だった――――――






「グオオオオオオおおおおオオオオオオオオオオオオおオオオオオオオおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおオオオオオオッッ!!」



 獣じみた轟音の叫声が、夜の闇を切り裂いた。


「ひっ…………!!」


 勢いに気圧され、静馬は蹴飛ばされるようにして背中から地面に崩れ落ちる。

 本能的に視界を覆った両腕の隙間からは、叫び声を上げる男の様子が見て取れた。

 声を出しているというより男の肉体の奥深くで何かが打ち震え、その音が声帯を通り抜けたことにより人間の声のようになって吐き出されているような、まさしく獣のような人間離れした叫び。声で血肉が震えているのか、バリバリとノイズ混じりになって静馬の耳に鳴り響く。

 静謐に佇んでいた男が、突如大声を上げて咆哮した光景。それだけでも静馬の過ごしていた安寧秩序は崩れたというのに、異常はまだ終わりではなかった。

 足が震えて立ち上がれない、静馬を余所に。

 声を発していた男の頭部が、ぐごっ、と歪に膨らんだ。

 そして――――風船を割ったかのような勢いで、男の頭蓋が湿った破壊音とともに砕け散って、人間の中身がおぞましい勢いで重力に逆らい、噴出した。


「……………………!?」


 吐き気を催し、再び強く口を押さえる。男の周囲に内容物が飛び散るのを見ながら、静馬はそれ以上に不可思議な光景を目の当たりにした。

 噴水のように首元から湧き上がる、いわば男の身体の中身

 それが噴出していくとともに、男の身体はまるでアイスが溶けていくそれのように、みるみるうちに小さくなっていったのだ。

 噴出しているモノも、どこか違和感があった。

 やけに黒いのだ。人間の中身としては奇妙なまでに黒く、その所為で終に男の姿は見えなくなって、階段の踊場には吸い込まれてしまいそうな闇だけが広がっていた。

 ぼとぼと、ぼとぼと、と中身が落ちる音が聞こえる。

 肉片が落ちる柔らかい音に、何か硬いものがぶつかる音も混じっている。

 理解が追いつかない静馬は、この血腥く、何もかもが意味不明なモノから目を離すことも出来ず、立ち上がって逃げ出そうと必死に足に力を込めていたが。

 ある瞬間、男から飛び出していたモノの正体に気付いた。

 気付いた理由の一つが、聴覚に訴えかけてくる、ぶうんという重い音。

 それを聞いたて、静馬は本能的に理解する。


 虫の、羽音――――


 そう、静馬が認識した瞬間。

 ざあっ、と空気を切り裂く音が、静馬の横をかすめていくようにして通り過ぎた。


「!」


 慌てて身を守るように両腕で遮るが、身体には何も触れなかった。


「え……?」


 不思議に思った静馬が、やけに静かになった光景に目を戻すと。

 そこには既に男の姿も、流れ出してくる血液も、もう何も残されていなかった。

 まるで、今の今まで静馬が見ていた光景は幻だったのだと言わんばかりに、階段の踊り場では、夜になって灯った蛍光灯だけが、ちち、と明滅していた。

 茫然自失としているのは静馬だけで、目の前にはもう、血が流れた跡さえも残っていない。何度か目蓋をこすってみるが、異形の気配は跡形もなく消え去っていた。


「……何、だったんだ」


 生温い風だけが、頬を撫ぜていく。

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