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グランギニョルの蟲遣い -Insector's flood-  作者: 津上夏哉
第一章 正義の証明
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#01 『黄昏時の邂逅』

 午後六時を回り、遠くで時計台の鐘が鳴っている。

 三城市は住宅地の広がる新興都市のようでありながら、その傍らでは古風で、素晴らしく文化的な一面も持っていた。

 時計台を中心に碁盤目状に並ぶ、煉瓦造りの欧風建築。次々と近代的に発展していく世の中に反旗を翻すかのように、昔から何一つ変わらない風景だ。今となっては珍しく思える煉瓦造りの建物の数々は、古き好きヨーロッパ文化を愛する男子高校生、秋月静馬あきつきしずまにとって心躍る産物であった。

 夕暮れの陽を浴び、黄昏色に染まる赤煉瓦仕立ての家々が並ぶ目抜き通りの美しさは代えがたいものがある。重要文化財への登録が囁かれるほど三城市の景観は昔から全く変わっておらず、最近できたコンビニでさえも、その様相は古き良きロンドンの建築物に瓜二つだった。


「本当に、ここはいい街だな」


 それらを見て、涙を流さんばかりに喜びを噛みしめる、静馬。

 自他ともに認める欧風好きの静馬にとって、三城市と言う存在は、生きていく上で何よりもかけがえのないものだった。


「おっと、いけない」


 愛すべき風景にしばし陶酔した後、夢心地から覚めた静馬は、担任から貰ったメモをポケットから取り出した。


「えーっと、三城団地Aの二〇五号室か」


 静馬が受け取っていたのは、ある生徒の住所を書いたメモとプリントだった。

 四月になり、高校二年生となった静馬のクラスでは、始業式から一週間連続で休んでしまっている生徒がいた。担任が訪れても拒否されたとのことで、同じクラスの生徒ならば受け入れるだろうと、一年次から継続的に風紀委員会に所属している静馬に任されたのだ。面と向かって断ることが苦手な静馬は、これをすんなりと受け入れた。

 休んだ生徒の住んでいる三城団地があるのは、学校のある欧風街を出て田畑を越えた先にある住宅地。

 都市部には時代の流れが止まってしまったかのような、一九世紀のロンドンの街並みを思わせる風景が広がっているのに、少し外に出てみると緑をメインに据えた田園風景があって、更にそれに隣接するようにして新興住宅地が佇んでいるという、なんとも名状しがたい構造をしている。農業と都市の両道などとメディアは報道を繰り返していたが、静馬としてはそんなことはどうでも良かった。

 早く用事を済ませて、あの街に戻ろう。

 そして行きつけのカフェでモカを飲んで、昨日買った小説をゆったりと読もう。

 うずうずと抑えきれない楽しみを抱えながら、静馬の足は住宅地へ急ぐ。

 ローファーが地面を打ち鳴らす音が、土を踏む音に変わる。

 欧風街を抜けて、田畑のある場所へと出たのだ。一歩出ればそこは何の変哲もない田舎の風景で、振り返ればまるでテーマパークから出てきたみたいだな、と静馬は呟いた。

 緑の草むらが縁取る道を進むと、その奥に見える住宅地へはあっという間に辿り着く。すぐ近くにある地図看板を見ながら、静馬は目的の三城団地Aを指差し見つけた。


「あったあった。良かった、すぐ近くだ」


 Aという名前だからなのか、三城団地Aは看板から一〇数メートル離れた場所にあるようだった。そのマンションを見つけるのにはほとんど時間を要さず、静馬は三城団地Aへ向かう。

 用事を済ませた後の楽しみが待ちきれず、少し鼻歌交じりになる静馬。

 二〇五号室ということで部屋は二階にあるはずなので、静馬は中央部にある階段を見つけると、そこへ軽快に駆け寄って行く。

 そして、





 階段を流れ落ちている、赤黒い液体を視界に入れた。




「え――――――」


 ぴちゃ、と音を立てている一段目に足をかけて、ようやく静馬は異変に気がついた。

 液体の量は尋常ではなかった。ぽたぽたという音と共に、雨が降ったと思うほどの勢いで、液状の何かが階下へ流れていく。当然、今日は雨など降っておらず、雲ひとつない晴天だ。溜まった雨が流れているとは考えられない。そもそも雨が降っていたとして、天井のある団地の階段に雨が溜まるはずがない。

 それ以前に、この液体は墨と血を混ぜたように赤黒い。

 ただの雨ではこんなことにはならない。

 墨と血を混ぜたような、赤――――

 そう考えた刹那、放心状態の静馬の嗅覚に、鉄臭い匂いがむっと飛び込んだ。


「!」


 不快に顔を歪め、思わず静馬は鼻をつまむ。

 それでも匂いが収まることはなく、その以上に鉄臭い匂いを知覚した瞬間、それは静馬の閉じた嗅覚を、視覚を、触覚を……五感を著しく刺激した。

 足元を流れていく、赤黒い液体。

 鼻が曲がってしまいそうな、吐き気を催す匂い。

 静馬はその液体が何なのか、確信して呟く。


「血が、流れてる…………!?」


 墨と血を混ぜたような液体。

 それは比喩などではなく、まさに血液そのものだった。

 吐き気を堪え、小さく呻き声を漏らす静馬。少しよろめく度に、足元に溜まった血溜まりが水溜まりを踏んだように音を立て、制服のズボンに血飛沫が染み付いた。しかも、まだ生温かい。

 全身から汗が噴き出し、学ランの下に来たシャツを湿らせる。手で覆った口から出る息は荒くなり、静馬は過呼吸に陥ったように阿吽を繰り返した。

 噴き出した汗が眼球に触れて、視界が滲んでいく。

 歯の根が合わずに、静馬は何度も歯をがちがちと鳴らした。


「い……一体これは、何が…………」


 朦朧とした意識の中で呟いた静馬の耳に、

 残酷にも、その音は届いた。


 ――――ずちゅ


 と、柔らかい肉が地面に落ちたような音が鮮明に響く。

 静馬はぴたりと動きを止め、呼吸の頻度はそのままに息を吐く音を小さくした。

 聞き間違いではない。

 血液が流れている階段の上から、何かの落ちた音が、聞こえた。


「……………………」


 ひどく静謐な世界で、静馬は涙の浮かんだ顔を、足元に向けていた。

 階段の上にはまだ、視線を動かしていない。流れている血に心を乱され、軽くパニック状態に陥っていてそれどころではなかった。臭いから嗅覚を遮断し、ようやく平静を取り戻しかけたところで、脳裏に考えが過った。

 冷静に考えれば当たり前だ。

 階下へと、血が流れているということは。

 血を流している何かが、その上にいるに決まっている。


 ――――ずちゅ


 くぐもった音がまた、黄昏時の階段に響く。

 心臓が早鐘を打つ。身体が無酸素運動の後にように固まり、身動きが出来なかった。凍りつくような恐怖のせいであることはすぐに分かった。分かったところで、この場から立ち去る力など、込めたところで足元の血溜まりがわずかに波を立てるだけだった。

 だというのに、静馬の顔面に張り付いた二つの眼は。

 徐々に視界を、上へ上へ、とずらしていく。

 操り人形の頭が、主の手によって、段々ともたげられていくように。


 ――――嫌だ、見たくない!


 頭はそれを強く拒絶した。

 見上げた先に何がいるかなんて、静馬は見たくもなかった。だが、見るなと言われたものが見たくなるのと同じように、眼球はきりきりと上へ向いていく。

 階段の踊り場が、徐々に視界に映しだされる。

 夕陽を浴びていない、真っ黒に翳った踊り場が、見えてくる。


 ――――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!


 目蓋を下ろしたくても、筋肉が攣ってしまったのか、眼は大きく開かれたままだった。そのせいで眼球の縁からは涙がこぼれ、頬に筋を作って垂れていった。

 ぽちゃんと、血溜まりを涙の雫が穿つ。

 藁にも縋るような思いで静馬は、震える両手を両目に当てた。





 ごぼ(・・)っ、


 異物を吐き出したような不快な音が鼓膜を震わせると同時に、

 後ろ髪を引っ張られるようにして、頭がガクンと上を向いた。

 手の平で遮ることが出来なくなった視界に、目の前の光景がまざまざと映し出される。


 夥しい血液が溢れる踊り場に佇んでいる、

 眼球を失って骸のようになった、血みどろの男と目が合った。

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