#00 『case.雛沢未咲』
こちらは以前連載していた『飽蝕のレトラ』を、誤削除につき、再度登録している作品です。詳しくは活動報告をご覧ください。
「……それでさ、田中ったら会って一週間ぐらいなのにもう告白したんだって」
「まじで? それやばくない? いくらなんでも早過ぎるでしょー」
「ほんっと、信じらんないよねー」
「ガツガツ来る系の男子ってちょっと苦手だわー」
三城清州高校の二年生になってしばらくたった、四月の終わりごろ。
新しいクラスにもようやく慣れてきた未咲は、昼休み、他愛のない会話で盛り上がる友人たちのことをぼーっと眺めていた。
女子同士でこうやって輪になると、必ずと言っていいほど、誰かの恋愛話でもちきりになる。今日も隣のクラスの男子が告白をしただの告白をされただの、ガールズトークが際限なく繰り広げられている。未咲は心底、そういった色恋沙汰に興味がなかったが、和を乱さないよう興味のある体は装っていた。
単に恋愛に興味がないだけではなく、未咲は、噂話のような信憑性に欠けるものをひどく嫌っていた。上辺だけで物事を判断してはいけないと、昔から教えられていたからだ。だから出処が不確かなゴシップに耳を傾けることはほとんどない。友人の話す誰かの噂話はいつも、右から左に聞き流していた。
ただ――未咲にとって関心のある噂の場合、打って変わって、真偽を確かめるべく自ら調査に乗り出すこともある。
少し前に、クラスの男子が煙草を吸っているという噂が耳に入った。
高校生が喫煙など、本来なら許されるはずもない。しかし、何者かがその現場を目撃したわけではなかったので、最終的には誰かが流したホラ話という形で丸く収まった。
だが、それでも未咲は煙草を吸った・吸ってないの証拠を見つけるために、周囲の人間に聞き込みをするなどの行動をとった。周囲の誰もが、未咲が風紀委員で、自分のクラスメートが校内の風紀を乱すはずがないと考えて起こした行動だと思っていたが、彼女の行動原理は他人が想像するものとは別の点にある。
風紀委員、副委員長。
雛沢未咲は、徹底して自分の『正義』を布いていた。
もとより曲がったことが大嫌いな未咲は、もし誰かが自分の考える正義を破ろうものなら、厳重に戒めて自分の正義に従うように指導した。
遅刻しがちの生徒には個人的なペナルティを課す。授業中居眠りをする生徒は教師が正す前に自ら注意勧告し、目が覚めるまで廊下に立つことを強いる。
未咲の行為の多くは、一生徒の忠告としてはおそらく過度なものだ。
それでも、自分の決めた方針を変えるつもりはなかった。
幼い頃からテレビで流れていた、特撮ヒーローのワンシーンが脳裏をよぎる。
他に誰もいない寂れた荒野で、正義の味方が悪役と戦っている。頼れる仲間などどこにもいない、孤高の戦士だ。ヒーローは死闘の末に勝利を掴み、人々に気づかれることなく、平和を守るためにいつまでも戦い続ける。当時から憧れていた未咲は、自分も将来的には正義の味方になろうと固く誓った。
どれだけ時間が過ぎようと、未咲の『正義』に対する関心は強いままだ。
思いは今でも変わっていない。現実世界にも、悪事をはたらく人間はたくさんいる。ニュースを騒がせている殺人犯はもちろん、煙草を吸っただのくだらない噂を流した人間も、程度は違えど悪事であることに変わりはない。
「ほんと男子って理解に困る生き物だよねー、未咲」
「……うん、全く」
未咲は微笑みで答える。
その眼の奥には、いつでも正義が宿っていた。
帰り道で友人と別れ、未咲は歩いて一時間ほどの自宅に向かって自転車を漕ぐ。
未咲の通う三城清州高校では、通学に徒歩で十分以上かかる場合、自転車での登校が許されている。どちらでも良かったが、朝はできるだけ早く登校すると決めている未咲は、一年生の頃から自転車通学を続けている。
未咲は帰り道、自転車で風を浴びながら眺める風景が好きだった。
春の陽気で暖まった空気を纏いながら、車通りの少ない道路の白線の上を、程よいスピードで駆け抜けていく。虫の鳴き声が通り過ぎ、時折すれ違う人々に会釈する。道に沿って生い茂っている草木を見ると心が癒されるというのもあったが、それ以上にこの町が好きだった。
三城とは都会と田舎の良いところだけを総取りしたような地域で、街の中心部は商店街やデパートなどで賑わっている。少し外に出れば住宅街が見え、さらに進むと都会ではめったに見られないような田園風景が一望できる。近年ではテレビでも取り上げられるほど人気の地域に成り上がっており、そのせいかマンションの施設工事がいささか多くなっているように見えた。未咲は、それが少しだけ鼻につく思いだった。
長い黒髪に風を絡ませながら、並木の並ぶ一本道を、さああ、と走り抜ける。いくらか気分が落ち着いた様子の未咲だったが、表情にはまだ曇りが残っていた。
今日も『正義』を執行した。
午後の授業中、一部の男子が授業を聞かずに携帯ゲーム機で遊んでいるのを、未咲は偶然発見した。授業が終わった後、未咲はそのことを教師に報告したのだ。当然のことだが、男子生徒は没収と叱責を喰らったという。
そこまではいつもどおりの正義執行。
未咲は何の疑問も持たない。
しかし帰り際になって、未咲は携帯ゲームを没収された男子に文句を吐かれた。
――――お前みたいなやつがいるから、学校の居心地が悪くなるんだ、と。
桂木という名前の生徒だったか。
今思い出しても、眉をひそめたくなる悪態だった。その時は反論もせず適当にあしらって学校を後にしたのだが、心底苛立ちを覚えずにはいられなかった。
今まで感じたことのない、深い憤り。
小学校、中学校と風紀委員を務めてきて、未咲は自分に対して刃向かう人間に出会ったことが無かった。それは未咲が正義感の強い女子で何となく反論しづらいことや、三城町自体に悪事を好むような人間がいなかったことが要因の一つとして挙げられる。
高校になり、他の町からも生徒が通うようになると、少なくともそこには今までとは異なる空気が漂っていた。桂木も別の町から通ってきている生徒で、学校をさぼるなんてことは日常茶飯事というように、未咲からしては信じがたい行為を平然と犯している。
ここまで来ると、怒りよりも先に呆れが生じた。
「……ああいう人間こそが、本当に理解に苦しむ生き物ね」
昼休みの会話を頭の中で思い返しながら、ため息を吐く。
田畑に囲まれた一本道が終わると、小高い丘の上に住宅地があるのが見える。
最近増えているニュータウンといったもので、少し前に雛沢家も、そこにあるマンションへと引っ越した。丘の上からの眺望は良かったが、家の周りは欧米風に区画整理がされているので多少の違和感はあった。それでも、家の前まで自転車を漕いで学校の方を向き、果てしなく広がる地平線を、ぼう、と眺めると、そんなこともどうでもよくなってくる気がした。
親が植木鉢の下に置いて出た鍵を取り、玄関を開ける。
雛沢家は母子家庭で、母親は朝から晩まで働き詰めだ。たいてい未咲が先に家に帰り、晩御飯を作ってひとりで食べ、母親を待たずに床に着くのが日常だった。
母と娘で仲が悪いわけではない。二人とも用事がない日は、一緒に買い物に出かけることも頻繁にあり、母親が帰ってくるまで起きている時もたまにある。
多くの場合、風紀委員の仕事やら何やらのために朝早く出なければならないため、母親が帰ってくる前に眠ってしまっていた。それは体調を壊さないようにと、母親のほうから進言されたことだった。
靴を脱ぎ、リビングにあるソファに座り込んで、テレビリモコンの電源ボタンを押す。
ちょうどテレビでは人気の討論番組をやっているようで、今日の議題のところには【いじめが黙認される事態】と書かれていた。
いろんな番組で見かけるコメンテーターや教授が、一心に議論を白熱させている。ガールズトークもそうだが、どうしてこうも語り尽くされた議題でここまで熱くなることができるのだろう。未咲は制服を脱ぎながら、虚ろな目で画面を眺める。
『……つまり、今の子どもたちはいじめを受けても、誰にも言えずただひたすら耐えている状態にあるというわけですよ。ですから当然、自殺なんかも多くなってしまうわけです』
眼鏡をかけた、いかにもな教育者が身振りをまじえながら語る。
『ですからね、これからの時代は周囲の大人たちが子どものことをちゃんと見てあげないといけないわけですよ。学校の先生や地域の方々。そして何よりも母親と――――』
ああ、だめだ。
未咲はリモコンに手をかけるが、少し遅かった。
『――――父親、なんかはね……』
その瞬間、テレビの電源が落ちた。
リモコンを持っている手が、かすかに震える。静寂が支配する居間の中に、自分の呼吸の音だけが、ひゅう、と響いた。心臓がどっどっと強く脈動しはじめていた。
「……見なきゃよかった」
未咲はリモコンをテーブルの上に置き、ソファに寝転ぶ。
扉や窓を閉め切った、少し暑く感じる部屋の天井を見上げ、さっきまでとは意味合いの違うため息を吐き出した。壁時計の秒針の音だけが、しばらく響く。
――夜になるまで、少しだけ休もう……。
未咲は頭の中で述懐して、瞼の裏の世界へ落ちて行く。
黙認されるいじめ。
いじめに耐え続けるこどもたち。耐えられることなく、命を絶つこどもたち。
信じていた人の裏切り、頼るもののなくなった絶望。
自分自身しか信じられない――――現実。
そうした言葉を、頭にめぐらせながら。
○
生きている人々は、みんな過去を抱えて生きている。
楽しいこと、悲しいこと。辛いこと、苦しいこと。それは多種多様に姿を変え、人々の記憶に居座りながら、人を人たらしめるものとして刻みつけられている。
だが、昔の記憶は、年を重ねていくうちに忘れ去られていくものも多い。
とりわけ忘れられやすいのが、苦しんだ記憶――いわゆるトラウマだ。
誰でも、楽しかったことなら鮮明に覚えている。試合に勝った、初めてデートに行った。そういった記憶は頭のなかに焼きつけられ、苦しいときには、それを思い出して立ち直るように人の頭は作られている。楽しかった記憶は、思い出として人の歴史に華を添えるのだ。
だが、苦しんだ記憶は、思い出とは似ても似つかない。
たとえば、ショートした電気で手が真っ黒になった。トラックと衝突して大怪我を負った。多くの人間から虐待を受けて鬱になった。そのほとんどが、二度と思い出したくない記憶として認識されていることだろう。
だから人は、嫌な記憶を忘れようと努力し、忌むべき過去が抜け落ちた穴を、楽しい思い出で塗りつぶすことで、苦しかった過去をなかったことにしようとする。嫌なことがあったあと、忘れようと気晴らしに走るひとは少なくないだろう。
だが、記憶というものは忘れることはできても、完全になくすことはできない。
フラッシュバックというものがある。PTSDなどに見られる、強い心的外傷を受けた記憶が、後に鮮明に思い出されてしまう現象だ。
フラッシュバックにより、人は過去の記憶を掘り返して、再び鬱状態に陥って自殺をすることもあるという。思い出した記憶が恐ろしいものであればあるほど影響は強くなり、精神に異常をきたす可能性も少なくない。地獄の底からよみがえった記憶は、やがて記憶に対する怒り、悲しみ、苦しみの感情へと形を変える。
そして、感情が肉体の限界を超えて溢れ出したとき。
感情は、実体あるものへと姿を変え、この世界に顕現する。
曰く――――それを【蟲】と呼ぶ。
蟲は、人が気づかないうちに体を蝕みはじめ、精神を、意識を支配してゆき、やがてその人間自身をわがものとして乗っ取ろうとする。
蟲に侵された人は往々にして錯乱に陥り、身体は本能的に蟲の持つ異常な力で、過去のトラウマを殲滅してしまおうとする。こうなるともう普通の人間ではいられなくなる。
蟲に侵された人々に与えられる道は、みっつ。
蟲の力に肉体および精神を喰われて、完全なる蟲と化す。
蟲の力に脅かされながら、力を制御して、這いつくばってでも生き延びる。
蟲の力を受け容れて、自在に操る。
ほら、こうしているうちに、今日も――――
――――蟲が、やってきた。