5 マリアンヌ・ヴァイザー 14歳 〜学院生活2年目〜
夏薔薇が満開に咲いていた頃、殿下に異性のご友人ができた。殿下のご友人であられる、アドルフ・ホルツマン様の婚約者で、バルナー・ヴェルガ—とも古くからの友人ということで、殿下とも親しくなられたのだ。ハンナ・ヴァイザー侯爵令嬢。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。まさしく、そんな言葉が似合う、同性の私からみても、美しい女性だった。容姿だけで言えば、ハンナ様はシルヴィアと学院の人気を二分するほどのお方だ。二人が並び立てば、学院の双姫と歌われる。シルヴィアの性格なども考慮して、総合的には、ハンナ様の方が人気は高いけれど。
もちろん、シルヴィアは殿下の近くに異性がいるということにいい顔はしなかった。ハンナ様がアドルフ様の隣に寄り添っているとき、負けじとシルヴィアは殿下に寄り添い、少しでも殿下の気を引こうと猫なで声で甘える。殿下がハンナ様に話を振ったりすると、シルヴィアの機嫌は急降下する。ハンナ様も、そんなシルヴィアの性格を理解しているのか、ハンナ様から殿下に話しかけたりすることはない。ハンナ様はアドルフ様の隣で静かに微笑んでいらっっしゃることが多い。
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昨日、シルヴィアは、放課後に殿下の側にいなかった。殿下の側に、金魚の糞のようにくっついていたのに、放課後に殿下の側にいない。こんな日はなかった。嫌な予感がした。殿下も、シルヴィアが何処に行ったのかご存じない様子だった。私は、次の日、放課後のシルヴィアを尾行した。
学院の衣装室で深いフードをかぶり、外へ出て行くシルヴィア。よからぬことを企んでいると私は確信をした。
学院のある貴族の住む閑静な町並みを抜け、市井の者が住む街へ。そして、その裏路地を曲がり、貧民窟へ。
シルヴィアと落ち合っているのは、明らかに悪行を生業とする人間達だった。公爵の令嬢がお忍びで会って良い類いの人間ではない。
私が耳を澄ましていると、「ハンナ・ヴァイザーを殿下の前に2度と顔を出せないようにしてしまいなさい」と、シルヴィアの透き通る声がきこえた。
「シルヴィア様、ここで何をされているのですか」と、私は人相の悪い男と、シルヴィアの間に割って入った。
『どうしてあなたがここに?』というような驚きの目でシルヴィアは私を見ていた。
「全てのことをこれで忘れなさい」と、私は人相の悪い男に金貨の詰まった革袋を投げてよこした。男は、金貨の中を改めると、すっと闇の中に消えていった。
「シルヴィア様、ここで何をされていたのですか?」
「あなたには関係のないことです」
「先ほどの者と逢い引きそされていたのでしょうか?」
「なっ。殿下の婚約者である私がそのようなことをするわけないでしょ。侮辱は許しません」
「侮辱しているわけではございません。こんな場所で、男といるところを見られたら、そう取られかねないと申し上げております」
「黙りなさい。逆賊の娘。殿下の従者だからと言って、つけ上がるのもいい加減にしなさいな。誰のお陰でいままで生きていられていると思っているのですか?」とシルヴィアが静かに言った。怒りが一回りして、落ち着かれたようだ。
「2度と、あのようなものと関わることをお辞め下さい。1度関わると、それをネタにしつこくあなた様に付きまといます。そしていつかは、殿下の婚約者としての貴方の名誉に傷がつきます」と私はシルヴィアに言う。
「黙りなさい。下賤の者と関わるな、ということであれば、私の目の前から一刻も早く消えなさい。あなた以上に下賤な存在を私は存じ上げないわ」と、静かに青色の瞳で私を真っ直ぐにシルヴィアは見つめる。
「それは、あなたの言う、下賤な者を従者としている殿下への侮辱でしょうか?」
「なっ——。人の揚げ足を取るのがお上手ね。」
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月日が流れるのは早い。学院での2年間はあっという間に流れた。
屋敷で生活をしてから、一度も呼ばれたことのない、ロイトリン公爵の執務室に私は呼ばれた。
「マリアンヌ・ヴァイザー。お前の縁談が決まった。卒業式が終えたら、お前は、ヴェルガ—公爵のご長子であられるバルナー・ヴェルガ—氏に嫁げ。結婚祝いという訳ではないが、私が預かっていたヴァイザー侯爵の領地もお前に返そう」とロイトリン公爵が一目で高級品だとわかる漆黒の皮の椅子に座りながら静かに言った。
「今までお世話になりました」と私は静かにお辞儀をした。
儀式の1つでしかない卒業式は、恙なく終わった。卒業式の次の日、私はヴェルガ—公爵家が用意した馬車に乗り、ロイトリン公爵家の屋敷を離れる。餞として新調されたドレス。数年ぶりにドレスを着た。大きく胸元が空いたドレス。あの日から私の心は1歩も動いていないけれど、体は勝手に成長していたようだ。
遠ざかっていくロイトリン公爵家の屋敷を眺める。私がずっと眺め続けているのは、殿下のお住まいになられている部屋。そこには、殿下の御姿があった。私のお見送りをしてくださっているの。私は、屋敷の窓が見えなくなるまで、ずっとそこを見つめ続けた。