第3話
意気揚々と竜の里を出発したユイだったが、見上げるほどに背の高い木々が立ち並ぶだけの代わり映えしない景色に、早くもうんざりし始めていた。わかっていたことではあるのだが、やはり空を飛ぶのと地上を歩くのとではわけが違う。
ユイの体感ではもう地平線から太陽が顔を出してもいい頃なのだが、森の中は変わらず薄暗い。かろうじて枝葉の隙間から青空がのぞいて見えた。
(そういえば、このあたりは魔物が出るっておばあちゃんが言ってたっけ……)
ふとそんなことを思い出し、ユイは退屈ゆえに緩んでいた気持ちを引き締めなおした。
ここから先は、安全地帯ではない。油断は禁物だ。
竜の里へと通ずる道は複数の竜が代わる代わる交代で施している目くらましの術によって、人はもちろんのこと魔物たちも本能的に寄り付こうとしないのだが、どうやらその効果範囲を抜けたらしい。先ほどからユイは、ちらほらと自分の動向を窺うような視線を感じていた。
この世界には、竜や人以外にも様々な生物たちが存在している。
その中にはほかの生命体に害を成す魔物、魔獣、あるいはモンスターと呼ばれる異形の生物も数多く確認されおり、魔物とは魔石と呼ばれる結晶を体内に持っているものを指す。
魔物は他種族に対してなぜか非常に攻撃的であり、何をせずとも遭遇した時点で問答無用に襲いかかってくることで知られている。しかも、魔石に溜め込んだ魔力が増えるほどに強さを増していくというのだから、厄介なことこの上ない。
空から眺める分には平和に見えるアストレリアというこの国もまた、度重なる魔物たちの襲撃に荒らされているのだという。
それを知ったところで、わざわざ探し出してまで魔物をどうこうしてやろうという気持ちはユイにはなかったが、襲いかかってくるのであれば話は別だ。自分の身に降りかかる火の粉は、自分の手で払わねばなるまい。
遠慮なく叩き潰すつもりである。
人化の術を使っている最中、竜の放つ独特な気はかなり抑えられているため、よほど高位の魔物でない限りユイの本体が竜であることに気づくことはまずない。
魔力を己の糧として生きる魔物は、魔力を豊富に身に帯びる人肉を好んで食すという。人間の少女といういかにもか弱げな今のユイの外見は、魔物にとって格好の獲物に見えていることだろう。
「さっさと襲いかかって来ないかなあ」
自分が見逃された結果として、偶然このあたりを通りかかった誰かが運悪く魔物の被害にあったらと思うと寝覚めが悪い。本体は竜であるユイであれば魔物ごときに後れを取るはずもないのだが、非力な人間が襲われればあっけなくその生命を刈り取られてしまう。その様子は、たやすく想像できた。
とはいえ、こちらから打って出るというのもいかにも面倒だ。
内心で嘆息したユイは、休憩するふりで適度な大きさの切り株の上に腰を落ち着け、軽く目を閉じた。視界が閉ざされた分、それ以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
吹き抜ける風が、むき出しになっているユイの首筋を撫ぜた。ひんやりと心地よい感触にほっと息を吐いた、その刹那。
――ついに気配が動いた。
同時、再び見開かれたユイの両目が捉えたのは、魔物の定番といえるゴブリンの姿だった。
(いち、にい、さん……思ったよりも多かったみたい)
その数、全部で十五匹。
ゴブリンたちは殺した獲物から奪ったと思しき棍棒やナイフなどの武器を手に手に、一斉に飛びかかってきた。
「グゲ、グゲゲエ」
人の神経を逆撫でするような耳障りな鳴き声に、ユイは不快げに眉を顰めた。
これまでほとんど竜の里から出たことのないユイは、まともに魔物を見たのは、実はこれが始めてだ。
爛々と輝く血の色をした瞳が、ユイの全身を品定めするように眺めているのが分かり、気色悪さに身震いが起きる。口元からのぞく鋭い牙で、数多くの獲物の喉笛を食いちぎってきたのだろう。
醜悪な、緑の化物。
(気持ち悪い! 魔物ってこんなやつばっかりなの?)
そんなことを思われているとは露知らず、当のゴブリンたちは仲間との連携など考える知能もないのか、一匹一匹がてんでばらばらに攻撃を繰り出してくる。当然、そんな闇雲に武器を振り回すだけの攻撃が、ユイに当たるわけもないのだが。
初めての戦闘だというのに、ユイの心は少しの動揺もなく凪いでいた。魔物に対する嫌悪感はあれども、怖れる気持ちは身の内のどこを探しても見つからない。竜としての本能がそうさせているのだろうか。
ひらりひらりとまるでダンスのように縦横無尽に身を躍らせながら、ユイは両の手をぎゅっと握りこんだ。
選んだ攻撃手段は単純明快、拳による力任せの撲殺である。
人化の術を使うことで、ユイの肉体は人間でありながら、竜である時と同程度の身体能力を得ることができる。そのため、ゴブリン程度の魔物を相手取るのに武器など必要ないだろうと、そう考えてのことだった。
そしてもうひとつ、人間となった肉体の慣らし運転、という意味もある。この体でどの程度の力加減が必要なのか、今後のために知っておきたいという思惑もあったのだ。
「よっし、女は度胸よ!」
物は試しとばかりに、集団から突出していた一匹のゴブリンめがけて、己の拳を無造作に振り抜く。
――ぐしゃり。
「ありゃ?」
予想外の手応えのなさに、思わず間の抜けた声が漏れた。
まともに顔面でユイの一撃を受け止めることになった哀れなゴブリンは、血しぶきを振りまきながら遥か前方へ吹き飛んでいく。
ゴブリンの血液がかからないように、ユイは念のためバックステップの要領で素早く距離を取った。
なぜかといって、身につけるために用意した衣服は今着ているワンピース一着しかないからだ。しかもこれは、イオネラからの貰い物なのである。
人化の術は便利なものだが、あくまでも変化するのはユイの肉体だけで、人々が着ている衣服を作り出すことはできない。そのため、どこかから調達してくる必要があったのだが、なぜかイオネラが女物の衣装を一揃え持っており、それを譲ってもらったという経緯があった。
イオネラは過去に人間の女性の誓約者がいたらしく、それらは亡くなった時に形見でもらったものだと言う。そんな大事なものをもらうわけにはいかないと、ユイも一度は断ったのだが「わしには必要のないものじゃ。洋服は着てもらえる人に持ってもらうのがいいじゃろう」と言って取り合わなかったため、有り難く頂戴することにしたのだ。汚されてはたまらない。
肌の色が緑だからなのか、ゴブリンの血液は緑色をしている。それを見て、ユイはより一層の不快感を抱いた。
自分の拳でゴブリンを殴りつけたのは咄嗟の判断だったとはいえ、迂闊であった。後悔の念が込み上げてくる。
(うわ、手の甲にゴブリンの血液がついちゃった……。やっぱり気持ち悪い! こんなやつらに直接触るなんて、私どうかしてた)
横目で残りのゴブリンの様子を注視しながら、先ほど屠ったゴブリンが手放した木製の棍棒を慌てて拾い上げ、正眼に構えた。
自分達の仲間が瞬殺されたのを見て、多少は慎重になったのか、じわりじわりと少しずつ包囲網を狭めてくる。
「まずは一匹」
ユイはそれを打ち破るように、自らゴブリンたちの密集地帯へ突っ込んでいく。スピードはそのままに、眼前に迫るゴブリンの頭部めがけて棍棒を振った。
「グギャ!?」
痙攣しながらどさりと倒れたゴブリンには目もくれず、次々と手当たり次第に脳天をかち割っていく。
(おっかしーな。これでもかなり手加減してるつもりなんだけど。やっぱり竜って規格外の存在なのね)
傍からはやすやすと頭蓋を粉砕しているようにも見えるが、本来はかなりの膂力が必要とされる芸当である。むしろ、ユイの力任せの一撃に、何の変哲もない棍棒が持ちこたえていることを褒め称えるべきだろうか。
文字通り敵を「叩き潰す」ユイの攻撃は、明らかなオーバーキルだった。
△▼△
一方的な殺戮の時間はものの数分で終わりを告げ、あたりには元通り静寂が戻った。
しばらくそのままの状態で何も起こらないことを確認してから、無意識のうちに入っていた肩の力を抜き、ようやくわずかに警戒を緩める。
(さて、と。ゴブリンを撃退することには成功したけど、この死骸はどうしたらいいんだろう)
魔物の死骸は、普通の生物たちと違って土にかえることはないという。このまま放置すればこの地は穢れを生み、血の匂いが新たな魔物を呼び寄せてしまう危険性もあったが、森の中で死骸を燃やすのは論外だ。今のユイにはその手段もない。
どうしたものかと思案していると、感心したような、呆れたような調子の声がユイの耳朶を打つ。
「おーすげえすげえ。全部脳天への一撃で頭蓋を粉砕されてら。いきなりゴブリンが吹っ飛んできたから、何があんのかと興味本位で見に来てみたけど、女の子がひとりきりってことは……俺、夢でも見てんのかな」
いつの間にかそこには、一人の男が立っていた。
男は草の上を歩いているというのに、ほとんど物音を立てずにユイの目の前までやってくると、
「これ、あんたがやったのか?」
脳漿をぶちまけて虚ろな目をしたゴブリンの成れの果てをこれ、と指差しながらそう問うた。
ユイは素直にうなずいた。
「まじかよ……。うへえ、何をどうしたらこんな芸当ができんだよ」
「この棍棒で殴っただけ」
生まれて初めて遭遇した人間相手に、少し緊張気味に口を開くユイ。まだ長い文章をしゃべるのが得意でないため、必然的に短い返事になった。
「殴っただけって、簡単そうに言ってくれるな……。普通こうはならんだろーに」
ゴブリンの血液を吸って緑に変色した棍棒と、ユイの顔とを交互に見比べながら、男は盛大に顔を引きつらせた。
「人」は大きなくくりとして人型の生物全般を、「人間」は種族名と思ってください。