第1話
鈍足更新ですが、お付き合いいただける方、よろしくお願いいたします。
少女は己の故郷に別れを告げるべく、彼方と此方の境目より一歩を踏み出した。
明確に『何か』を通り抜けたことを感じた直後、息苦しさを覚えるほど濃密な生き物たちの気配が押し寄せる。
見上げた空の色は変わらないというのに、夢と現の狭間にあるかのような心地のする竜の里とは何もかもが違っていた。
少女は気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸って吐きだした。
時刻は真夜中。少女の他に動くものはなく、目の前には暗闇が横たわっているばかりである。にもかかわらず、少女は迷いのない足取りで木々が鬱蒼と茂る森の奥へ奥へと分け入っていく。
きつく折り重なる枝の隙間から漏れる月光に照らし出され、可憐な少女の姿があらわとなった。
年の頃は十四、五歳といったところだろうか。美しいというよりは、可愛らしいという言葉の似合う少女であった。くりくりとしたアーモンド型の、大きな菫色の瞳が印象的だ。白磁を思わせる両頬は紅を刷いたように赤く色づいており、整った口元にはほのかな笑みがきざまれている。
少女が歩を進めるのにあわせて、頭の高い位置でまとめられた白銀の髪が左右に揺れ、月の光を反射してきらめいた。
視線の先に続くのは道ならぬ獣道だが、夜目のきく少女にとっては何ほどの障害にもならない。ほんの少しの月明かりがありさえすれば、数十メートル先も見通すことができた。
『ユイ』
と、不意に聞こえた呼び声に、少女は驚いたようにその場で足を止め、肩越しに背後を振り返る。
そこには、身体の表面から淡い燐光を放つ、緑色の髪と同じ色の瞳を持った美貌の乙女が立っていた。匂いたつような花の顔には心なしか陰りが見え、口元は横一文字に引き結ばれていたが、その美しさは少しも損なわれていない。
うっすらと向こう側の透けて見えるその姿から、乙女が実体を持たない存在であることが知れた。
彼女の名前はアルテミシア。竜の里を見守る大樹の精霊の子で、ユイは親しみを込めてアルトと呼んでいる。ユイだけに許された、特別な名だ。
アルトはユイと同じくらいに生まれた木霊で、人間の娘とよく似た外見をしている。
里で唯一の白銀竜と幼い木霊、両者は出会ってすぐに意気投合すると、種族の垣根さえも飛び越えて、たちまちのうちに友好を深めていった。
今ではかけがえのない、ユイの大切な友だ。
その友の横顔に影を落とす悲しみの色にユイの胸は疼いたが、だからといってどうすることもできない。悲しみの原因を作り出しているのは、他ならぬ自分自身なのだから。
『本当に、里から出て行ってしまうのですね』
目の前で立ち止まり、吐息のような声を漏らすアルト。
今にも泣き出すのではないか。そんな風に思い、けれどユイは、喉元まで出かかった言葉はかろうじて飲み込んだ。一緒に行こうなどと、できもしないことを無責任に口にすべきではないと、ユイにもわかっていた。
「うん、ずいぶん前から決めてたことだから。こればっかりはアルトのお願いでもきけないや。ごめん」
『そ、そんな、謝らないでください。ここはユイの笑顔を奪う場所だから、本当はそのほうがいいんだって、私にもわかってるんです。ただ、ユイがいなくなってしまうのが、どうしてもさみしく思えて……』
ユイの常になくきっぱりとした物言いに、アルトはきつく眉間に皺を寄せ、何事かを堪えるようにうつむいた。途端、まるで彼女の内心で吹き荒れる感情に呼応するかのように、足元まで至る緑色の髪がざわりと波打った。
アルトは生まれてからまだ二十年も経たない幼い木霊であるため、親である大樹の精霊から一定以上離れることはできない。木霊は己の力の受け皿となる霊樹とともに生まれ、ともに育つものだ。そのため、霊樹が成長しきらないうちに親の庇護下を離れると、大気に含まれる多量の魔素にあてられ、自我を保つことができなくなってしまう。
竜の里を出ていくユイにアルトがついて行きたいという願いは、どう考えても実現不可能であることはわかりきっていた。そのことを知ったアルトの落ち込みようは甚だしく、それは痛ましいもので。結局、ユイは今日まで里を出る具体的な日取りを伝えられずにいた。
だが、どうやらアルトにはユイの考えることなど全てお見通しだったようだ。今ここにこうして彼女の姿があることが、何よりの証左であろう。
『ごめんなさい。私こそ、わがままを言ってユイを困らせていますね。でも、竜であるユイが人里に降りて人間として生活するなんて聞いたら、心配で心配で……』
ぽつりぽつりと紡がれる言葉の端々にアルトの愛情と気遣いが見えて、ユイはそれを嬉しく思う反面、後ろめたさでいっぱいだった。
(アルトには悪いけど、正直な話やっと里を出ていけることに清々してる。今は何よりも楽しみな気持ちが大きいんだよね……)
外の世界にはユイの知らないこと、見たことのないものが溢れているだろう。想像するだけで胸が躍る。
とはいえ、それを顔に出すような真似はせず、不安げな面持ちのアルトを安心させようと意識して陽気な声を上げた。
『まったく、アルトってば心配性なんだから。確かに私は同族の中では最弱かもしれないよ? でもね、身体能力は人化の術を使っても竜のままなんだし、この地上で竜を害することができる生き物なんてそうはいないってことくらい、アルトもわかってるでしょう』
『そう、ですよね……』
『それに、一生会えなくなるわけじゃないんだから、そんな顔しないで笑って送り出してよ。私がどこで何をしてるのか、できるだけ風霊たちに声を届けてもらうようにするから。その代わり、アルトも返事をちょうだいね?』
『もちろんです! ユイこそ、新しい生活に夢中になって、その約束を忘れないでくださいね』
『そんなに心配なら、指きりでもする?』
首を上下にコクコクと振りながら、約束を念押しするアルトに、ユイは苦笑気味に右手の小指を差し出す。するとアルトは美しい面を喜色に染め、おもむろに右手を中空に差し伸べた。
『それでは、約束の証を』
その言葉を合図にして、どこからともなく現出した植物の蔦が意思を持っているかのように蠢き、ユイの小指に絡みつく。数度明滅した後、それは肌に吸い込まれるように消え失せ、指の付け根あたりに刺青を思わせる精緻な文様が浮かび上がっているのが見えた。
色味はアルトの瞳と同じ、ライトグリーン。
『これは?』
指の腹で撫でさすれば、自分のものとは違う魔力の脈動を感じる。
『お守りのようなものです。離れていても、お互いのことを忘れないように』
『そう。これを見るたびに、私はアルトのことを思い出すってわけね』
『ふふ、きっとユイの身を危険から守ってくれるはずです』
淡く微笑むアルトと視線を合わせ、ユイは大きくうなずく。
『ありがとう。最後にアルトに会えてうれしかった』
『私もです』
どうにも離れがたい、未練にも似た思いを無理やり断ち切り、ユイはアルトに背を向けた。
『そろそろ行くね? 同族に見つかると面倒なことになりそうだから』
『いってらっしゃい、ユイ』
親友の声に応えるように右手を軽く上げたのを最後に、ユイは振り返ることなく、ただひたすらに前へ足を進めた。アルトはだんだんと遠ざかる少女の華奢な背中が見えなくなるまでその場にじっと佇み、いつまでも見送っていた。
その胸にあるのは祈りにも似た想い。
『どうか希望を。希望を生かし続けてください』
そして木霊の少女もまた、闇に紛れるように姿を消した。
後には風がいたずらに奏でる葉擦れの音が、さやさやと響いていた。