下
戸隠山の山中を、二人の影が歩いている。
山の斜面だった。
金髪碧眼の童女が、先を歩いている。
「としゆきと言ったか?都人とは、ここまで弱いのか?」
その童女が、後方からついてくる男に声をかけた。
「いや、お前が、速すぎるだろう……」
男は、汗まみれで足元もおぼつかない。
「徒歩でいけば、大抵こうなる。しかしこの山がここまで険しいとは思わなんだ」
葉が落ちて、細々とした樹木の梢が隙間だらけで絡み合っているにも関わらず、山道は幽冥な空気が漂っていた。
いたる処に岩や窪みが点在し、紅葉の一つも姿を見せず、観光の名所とは思えないような荒廃ぶりであった。
戸隠山はもともと山岳信仰の対象になっており、山頂には農耕神が祭られ、麓には宗教集落があった。
全山がブナやサワグルミの森林に覆われ、東側斜面にはミズバショウなどの高山植物が豊富と言われている。
敏行は今まで伝聞のみで、実際に山を登った経験など無い為、現在の荒れように対して何の疑心も抱いてないのである。
「奥に行くほど、花々や木々も消えてゆく…一体どうなっているんだ」
その時、呉葉が立ち止った。
「確かに今までここは、四季の移り変わりをまざまざと映し出す、自然の魅力に溢れた山じゃった」
漸く追いついた敏行は、呉葉の神妙な話しぶりに黙って聞き耳を立てた。
「だがもう、全て滅んだのじゃ。花も木も、巡りゆく生命は全て絶えた。全て、もう何もかも…」
言葉が身体から出ていくにつれて、呉葉の表情は少しずつ変化していった。
目を開けても閉じても、嫌な光景が広がっているかのように、血の気が引き、脂汗が噴き出て、身体が震え始める。
それは紛れもない、恐怖の色であった。
「山を滅ぼしたのは…妾じゃ」
やがて呉葉は、硬い石ころを吐き出すように言った。
「成程」
敏行は、荒い息を整えながら頷いた。
「お前は戸隠山の名を、異常に恐れていた。やはりこの山で何かあったのだな」
奥州は会津の地に、笹丸と菊世という夫婦が住んでいた。
彼らには長年子がなかったが、第六天摩利支天に祈願して娘を授かった。
この摩利支天は時に魔王と呼ばれた為に、娘は魔王の申し子となってしまった。
何より彼女は普通の娘ではなかった。
誰もが振り向くほど美しく、また琴の名手でもあった。
その美貌を見初められ、村の人々から愛されていた娘だったが、時を同じくして、娘に執心な人間達が次々と奇病に苦しめられるようになった。
そこで、病気平癒の祈祷が行われると、ある信託が降りた。
「魔物が、彼らの命を奪おうとしている」
人々は、真っ先に娘を疑った。
身に覚えがなくとも、魔王の申し子としての瘴気が災厄をもたらしていたのだ。
人々は娘を忌み嫌い、人間の命を食らう鬼だと罵るようになった。
中には娘を討伐する為、僧侶や陰陽師を呼び寄せようと騒ぎ立てる者も出た。
娘は、両親と共に都へ逃げようとした。
娘は人目を忍び、両親の元へ急いだ。
だが、一向に二人の姿が見当たらない。
途方に暮れる娘の前に、村人たちがやってきた。
娘の前に出されたのは、二人の人間の首。
紛れもなくそれは、愛する両親の変わり果てた姿であった。
「さっさと出て行かねえと、お前も後を追うことになるぞ!」
口汚く罵声を浴びせる村人達を見た瞬間、娘の視界は真っ黒に染まってしまった。
気が付くと、無数の屍が散乱する中に立ちすくんでいた。
娘は、自分の手にかけられていく村人達が「やっぱり魔物じゃねえか」と喚き、自分が猛獣か物の怪でも見るような目つきに囲まれていたのを、はっきりと覚えていた。
娘は独りで、信濃国の戸隠山へ向かった。
最早人里など、当てにはならなかった。
〽げにやながらえて憂き世に住むとも
今ははや たれ白雲の八重葎
茂れる宿の淋しきに
人こそ知らぬ秋の来て
庭の白菊移ろふ色も
憂き身の類ひとあはれるなり
あまり淋しき夕まぐれ
時雨るる空を眺めつつ
四方の梢も懐かしさに
巡り巡る季節の中、人でなくなった者の慟哭に、山々も呼応した。
草花が枯れ落ちる。
大地が荒れ果てる。
生きとし生ける生命は、皆去って行った。
(私の居場所は、もうどこにもないのか……)
失われた平穏な生活が恋しくなるにつれ、娘の絶望と瘴気が絡み、邪悪な心が形成されつつあった。
次第に、魔王の申し子としての本性が頭をもたげ始めたのである。
娘は毎夜のように戸隠山や遠方の里にまで出向き、手当たり次第に金品や食料を強奪するようになった。
娘は生きながら鬼となった。
いや、自ら鬼の仮面を被ったのだ。
忌まわしい我が身を、忘れ去る為に。
落ちぶれた我が身を、恥じた為に。
「そうか、そのような事があったか」
呉葉が語り終えると、敏行は再び頷いた。
目の前には、草一本すら生えない、戦場のような丘が広がっていた。
鳥も、獣もいない。
時折、虚しく吹く風が頬を撫でるばかりである。
不意に小さく何かの音が聞こえてきた。
「もう戻らん……」
呉葉であった。
呉葉が、押し殺した声ですすり泣いているのである。
「妾は……妾はもう、人の道を踏み外してしまった。この世にもう居場所は無いんじゃ」
呟く呉葉の眼から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
乾いた大地の表面が、涙の露をゆっくりと吸い込んだ。
それを見ていた敏行は、その顔に幼子のような、無邪気な笑みを浮かべた。
「俺は、紅葉を見に来た」
何とも朗らかな声で、敏行は言った。
「永劫回帰の季節を映しだす、この山はまだ終わってはいない」
敏行は呉葉の足元にあった、一枚の枯れ葉を手に取った。
いや、枯れ葉であったものを。
呉葉の涙に濡れたそれは、鮮やかな紅葉となっていた。
敏行は、呉葉の涙を拭うと、辺りの木々に散らした。
涙の露が、木々に吸い込まれていく。
枯れた草木が、最後の輝きをなさんと、その姿を変えていった。
きらきらと輝く、千もの色に染まった葉をつけた枝が、静かに揺れていた。
紅葉が枝を離れ、宙に舞う。
思わず、呉葉は低い声を上げた。
「これは……」
「山が再び動き出したんだ。お前の哀しみが山を憂う純粋な心だったからだろう」
敏行は、静かにそう言った。
「綺麗だな……」
呉葉は、思わず口にしていた。
戸隠山に秋の訪れを告げる、緩やかな風の音だけが、いつまでも続いていた。
「白露の色は一つをいかにして、秋の木の葉を千々に染むらむ」
敏行は、満足そうにそう詠んだ。