上
誰もいない。
ここには、誰もいない。
不思議と寂しさは無い。独りである事が、やけに心地よい。
深山の奥深くにあるのは、ゆるやかに吹く風と、遠くに聞こえる山鳥の鳴き声。昔は恐れていたこの異様な静けさが、今ではこの身を安らぎに包んでくれる。
ここは人外の住む処だ。
ああ、己は人外のモノとなったのだ。
世の理を乱し、人の道から外れた己の業は、今なおこの身を蝕む。二度と帰られぬ人里へ馳せる想いは、いつまでも心から失せる事は無い。身を寄せた蔦の茂る古小屋は、その月日を表している。この蔦のように、己もいつか枯れて散るのだろう。
ならいっそ、その前に――全てを終わらせてしまおうか。
古今和歌集にその名を連ね、三十六歌仙の一人である人物に、藤原敏行がいる。
平安時代初期の歌人、書家である。
その書は写経にも定評があったが、本人は肉食など所謂〝俗世間の穢れ〟を厭わない男であった為に、死後地獄に落とされ苦しんだという。
聖者かと思えば人間臭い一面を覗かせる、彼が詠んだ歌に次のようなものがある。
白露の色は一つをいかにして
秋の木の葉を千々(ちぢ)に染むらむ
葉に垂れる露の色は白いのに、どのようにして秋の木の葉を、さまざまの色に染め分けるのだろうか、という意味だ。
白露の輝きと、千差万別の紅葉の色との交錯した美しさを詠んだ歌であるが、一方で木々の紅葉は秋の白露が染め上げるものだとする、当時の自然観に基づく疑問も投げかけられている。
類似する歌に、次の二首がある。
秋の夜の露をば露とおきながら
雁の涙や野辺を染むらむ
あきの露いろいろことにおけばこそ
山の木の葉の千種なるらめ
前者は、詠み人知らずの歌である。
木々を染める秋の露は、白一色に見えはするが、本当は各種様々の色におくからこそ、山の木の葉の紅葉の色が千差万別に彩られるのだろう、という意味である。「ことに」は「異に」と書く。
後者は、敏行と同じく三十六歌仙の壬生忠岑が詠んだ歌である。
秋の夜におく露は、紅葉を染めるのだろうが、それはそれとして、とりわけ、雁の涙が落ちて野辺を紅葉に染めるのだろう、という意味である。
悲しげに鳴く雁を、血の涙を流しているものとみて、その涙が野の草木を紅葉させると歌いなしたものである。
彼らは、敏行の問いにある種の答えを導き出していると言える。しかしながら、敏行はその答えを詠まなかった。
いや、彼は詠もうとしなかったのである。
冷涼なる風が頬をかすめ、秋の訪れを感じ入る日であった。
落ち葉が舞う、藤原敏行の屋敷である。
縁の板の上に座し、その機微に浸っていた敏行の目には、庭先の紅葉が映っていた。
(露は白く、葉は紅く、か……)
鋭い眼差しを更に細め、敏行は何事か思案していた。
(いや、これで上等とは言えないか)
表から声がしたのは、その直後であった。
「とーしゆーき君ッ、あーそーぼー!」
静寂を破りし朗らかな声に、敏行は溜め息をつた。続いてどたどたと足音を響かせ現れた男を、敏行は睨みつけた。
「検非違使でも呼ばれたいか、この横着者めが」
「冷たいじゃないか。物忌中だって言うから、こうしてお見舞いに来たのに」
「お前は物忌の意味を分かっているのか。まあ、それは口実だがな」
「何の?」
「お前と会わない為だッ」
無遠慮に向かいに座したその男は、同じく三十六歌仙の、紀友則であった。
紀貫之の従兄弟にあたり、彼や壬生忠岑らと共に古今和歌集の撰者になった程の歌人である。
「今日は敏行にお土産持ってきたよ」
屈託のない笑顔で言う友則の横には、荒縄で拘束された異様な風体の童女がいた。
金髪碧眼に、透き通るような白い肌。
異国情緒溢れるその童女は、激しい憎悪に満ちた目つきで友則を睨んでいる。
「どうだい、これ」
「どうって、お前の品性がどうなんだ。こいつのどこが土産なのだ」
いたって冷静に敏行は返した。
「ああ、勘違いしないでほしいね。この娘は近頃、信濃国辺りで悪事を重ねていた、悪名高い鬼の子だよ」
「鬼の子?」
「信濃守殿が捕えたのは良いけど、まだ幼いから即刻処刑は可哀想だし、今殿上人達にたらい回しにされているんだよね」
「誰も引き取らんのか」
「いくら何でも鬼の子だからね。悪い噂で、姫君達の評判を落としたくないじゃないか」
「ご苦労な貴公子共だな。生憎俺には縁のない話だ」
その時、沈黙に耐えかねた童女が吠えた。
「この都人が、いつまで妾を縛っておるのじゃ!」
友則はやれやれと頭を振った。
「こうして騒ぐから、僕も引き取るのは御免だね。という事で残るは敏行……」
「いや何で俺だ。鬼の子だろう?比叡山だのそこらの寺にブチ込んどけよ」
「嫌じゃ!糞坊主共の説教は御免じゃ!」
「なら人買いに高値で売り付けるか」
「おのれ、そのような事をしたら呪詛するぞ!」
敏行の提案の数々に、童女は負けじと食い下がり続ける。
「あの……ほら、敏行独り身で寂しいでしょ?世話してあげてくれないかな」
頃合を見計らって、友則が言いにくそうに告げた。
「断る。俺は好きで独り身なんだよ」
「親友を助けると思ってさあ、このままじゃ僕が災難を被るんだ!君に歌のイロハを教えたのは誰だ?そう僕だ!僕の頼みだぞ!」
そう懇願する友則が正直うざったくなったので、敏行は仕方無く童女の面倒を見ることを承諾した。
去り際、友則は思い出したように付け加えた。
「敏行、今度の歌合に出すんでしょ?そろそろ捻っといた方が良いんじゃない?」
「分かっている。もうお前にでかい顔はさせん」
最後まで朗らかな友人に、敏行はそう吐き捨て見送ったのだった。
友則の去った後、敏行は何の躊躇いも無く童女の縄を解いてやった。
「ほどけほどけと五月蝿いからな」
童女は呆気にとられた。
「珍しい奴じゃな……」
「俺を殺める力でもあるのか?鬼の子といえど、俺にはただの童女にしか見えん」
敏行の言葉に、童女は取り敢えず怒りの矛先を収めた。
「この国にはまだ、お前みたいな者がおったのか。都人は皆、人並み外れた者を鬼と畏怖し忌み嫌っておるからのう。信濃守のジジイなどは、妾を幾度も追い回してきた。ああいう外面だけの武骨者は都での評判も悪いじゃろうの」
滔々と語る童女に、敏行は苦笑した。
「信濃守の平維茂殿の事か?あのお方に追討されて、よくピンピンしているな」
「馬鹿な、瀕死の重傷を負った
「それにしては、傷跡も見えんが……」
「フン、どうせ鬼は死なんのじゃ!お前ら貧弱な都人と違ってな!」
童女が憤るので、敏行は話を変えた。
「お前、名は何という?」
「呉葉だ」
「呉葉か。響きからして、紅葉狩りの名所といわれる信濃の戸隠山を思い出すな」
童女、呉葉はそれを聞いた途端、今までの饒舌が急に止まった。
小さく息を吐き、庭の紅葉に目をやる。
ささやかな秋の訪れを仄めかせていたその鮮やかな色は、呉葉の視線を浴びた途端に、哀れな葉の末路による脆い虚勢に見えた。
ふいに呉葉が、口を開いた。
「都の紅葉は、綺麗か?」
「秋の風物詩だからな」
「そうか……」
「だがやはり、戸隠山も良いな。今頃時雨が重なり、鮮やかな色を深めているだろう」
言いながら敏行は、訝しげに呉葉の顔を見ている。
呉葉は、一旦口を開きかけ、その視線に耐えられなくなったように、眼をそらした。
「白露の色は一つをいかにして……」
敏行が不意に口遊んだ。
「それは歌か」
「今度の歌合用にな。友則の阿呆は――お前を連れてきた男だ――俺が歌に慣れんのを承知であれこれ難癖をつけてくるから、生半可には詠めんのだ」
「で、何と詠むのじゃ?」
呉葉は興味深そうに尋ねた。
「そうだな。秋の歌とでもするか。庭の紅葉を見て思いついたものだ」
白露の色は一つをいかにして
秋の木の葉を千々に染むらむ
「色の対比か。ふむ、悪くはないが……」
呉葉は数秒思案した。
「何か地味じゃな」
「これが人間というものが感じ入る風情ではないのか」
「ううん、少なくとも歌合には勝てんじゃろう」
「そうか……時雨の過ぎに葉が色づいていたのを見て、その仄かな不思議を詠んでみたが」
敏行は不服そうに言い返した。
「何を言うか!大体、紅葉とはそんなに弱々しい眺めではないわ。朽ち果てる寸前の木々の葉が、有終の美を飾らんと幾重にも染まるさまはまるで錦じゃ。自然の営みとはかくも大きなものかと感心させられる。こんな窮屈な都に引き籠っとるから真の美が分からんのじゃ」
再び呉葉は饒舌にまくしたてた。
今度は乱暴なく口調の中に、呉葉の違った感情が垣間見えるようだった。
紅葉に対する、いや全ての自然が織り成す光景に対する、呉葉の慈愛の精神、畏敬の念とも取れる執着が感じられたのだ。
先程からの敏行の疑惑が、確信に変わりつつあった。
「お前はまるで、山々の風景をいつも見ていたような口ぶりだな」
「当たり前じゃ!妾は昔から戸隠山に身を置いていてな……」
そこで呉葉はハッと気がつき、言葉を濁した。
「……いや、もう良いわ」
呉葉はそれ以上、歌の批評をすることはなく、黙り込んだ。
暫く二人の間に静寂が訪れた。
何か言いたそうに、口をぱくぱくと動かす呉葉を眺めていた敏行は、いきなりその場で立ち上がった。
「戸隠山へ行こう」
「何じゃと!」
「お前の言う通りだったかもしれん。俺は井の中の蛙だったようだ。直に自然に触れ、感じ入って詠むのが歌であったな」
敏行は足早に、屋敷を出ていこうとした。
「ま、待て」
慌てて呉葉は後を追う。
「どうした、お前も行くか?」
「お前は都人だろう、護衛も無しに遠出するのか」
「ほぼ隠居した身がどこに行こうと誰も止めん」
「ならば妾も行く!戸隠山は遠方だ。お、お前にここで何かあっては寝覚めが悪いからな」
呉葉はお前の為だ、お前の為だと繰り返しながら敏行についていった。
「よし、ならば行こう」
敏行の表情は早くも高揚していた。