闇の中の攻防
喧しくて鬱陶しいだけだと思っていた弁護士先生が意外にも弱点をさらけ出し、小刻みに震えているのが背中で感じられたので、少しだけ可愛く思えてしまう。だが、これから展開される事を思い描き、
「先生、ちょっとの間だけ我慢していてくれ」
そう言って、粘着テープのようにしがみついている彼女の両手を引き剥がし、携帯の明かりを頼りに部屋の隅まで誘導した。当然の事ながら、床にしゃがみ込んでしまった土方さんも同行させた。
「ありさ、準備はいいか?」
俺は懐中電灯を机の引き出しから見つけ出したありさに尋ねた。
「はいな」
妙な返事をして、小学生がするように下から自分の顔を照らすバカ女だが、取り敢えずいないよりは戦力になるだろう。俺は抱き合って震えている坂本弁護士と土方さんにくれぐれも動かないように念押しをしてから、ゆっくりと玄関へと歩き出した。途中の部屋や浴室に誰かが潜んでいる気配はない。電源はこの部屋ではなく、恐らくビルの地下にある制御盤で切られたはずだ。だから、俺の事務所も只今停電中という事になる。今は冬だからそれほど心配する必要はないかも知れないが、冷蔵庫に入れてあるいただきもののアイスクリームが溶けてしまう前にケリをつけたい。
「アイス溶けちゃうかな、左京?」
何故かありさが同じ事を考えていたのが悔しかった。気を取り直し、玄関のドアに近づく。息を殺して、外の様子を探った。だが、相手も気配を殺しているようで、何も感じられない。ドアスコープから外を確認しようと思ったが、何かが邪魔をして見えない。その時、危険な音が聞こえた気がして、俺は反射的にのけ反った。何かがドアスコープを貫き、玄関の天井を突き破った。サイレンサー付きの銃を撃ったようだ。おいおい、そんなやばい奴が相手なのか? 奥から弾丸の音に反応して、弁護士先生と土方さんの悲鳴が聞こえた。俺はありさに目配せして、ドアから離れた。次に襲撃者はドアを撃って来た。弁護士先生と土方さんは悲鳴の合唱を始めている。俺とありさは浴室に飛び込んで弾道から身を潜めた。このままじゃ防戦一方だ。反撃のチャンスはないものか? そんな事を考えている間にも、奴は銃弾を撃ち込んでいて、何度も音が響いた。次に襲撃者はドアを蹴り始めたようだ。鈍い音がして、ドアが玄関の上がり框に当たる音が聞こえた。
「来るぞ」
ハッと気づくと、狭い浴室の中で俺とありさはアルゼンチンタンゴを踊るのではないかというくらい身体を密着させていた。
「もう、左京ったら、エッチなんだから」
ありさがまた妙な事を口走る。俺は反論したかったが、襲撃者がそれを許してはくれない。奴は蹴り倒したドアを踏み越え、廊下に辿り着いたようだ。土足のまま上がったとはっきりわかる靴音が響いた。
「任せて、左京」
ありさはそう言うと、いきなりしなだれかかって来た。結果として俺はありさを抱きしめるように支えた。
「おい、ふざけるな、ありさ……」
突き飛ばそうとして、亜梨沙の身体に全く力が入っていない事に気づいた。始めやがったか、妖怪め。ついそう思った。
「うわあ!」
襲撃者の悲鳴が聞こえた。一体何が起こったのかは知りたくもないし、知る必要もないのだが、放置する事はできないので、力が抜けたありさの「遺体」を抱きかかえ、浴室を出た。
「只今、左京」
ありさが不意に起き上がり、耳元で言った。また全身総毛立った。廊下には泡を吹いて倒れている目出し帽を被った黒尽くめの男がいた。何をしたのかは訊くまいと思った。
「ここに都合のいい事に鏡があったから、脅かしてやったのよ」
ウィンクして言うありさは得意そうだが、俺はうんざりしている。彼女は警視庁の所轄時代に、俺のミスが原因で死にかけた。その時、会得したのが「自由自在に幽体離脱ができる」という人間離れした技だ。この哀れな男も、ありさの特技の餌食になったのだ。
「はいはい」
俺は形だけ誉めたフリをし、襲撃者を縛るものを探すためにリビングダイニングに戻った。
「怖かった!」
するといきなり弁護士先生と土方さんが抱きついて来た。暗がりにいて目が慣れたお陰で俺の姿が見えたのだろう。若い女の子二人に抱きつかれて悪い気はしないのだが、今はそういう感情を高めている場合ではない。
「電源が落とされてから賊が侵入するまでの時間が短い。もう一人いるはずだ。まだ身を潜めていてくれ」
坂本弁護士と土方さんを部屋の隅に戻らせ、俺はキッチンにあった荷紐を持って廊下に出た。
「気がついても暴れられない縛り方をするね」
ありさが嬉しそうにそう言い、右手と左足、左手と右足を背中で交差させるように結んだ。確かに暴れられないだろうが、態勢が過酷過ぎ、ちょっと可哀想な気もする。
「敵は少なくとももう一人いるはずだ」
するとありさは珍しく真顔で、
「電源を落とした奴でしょ?」
俺は意外な反応に目を見開いた。
「そこまでわかってるのなら話は早い。地下に行くぞ、ありさ」
俺は倒れたドアを乗り越えて外に出たが、ありさはついて来なかった。
「おい、早くしろ、ありさ。賊が来ちまうぞ」
イラッとしてそう言うと、ありさは、
「そいつもさっき、左京が紐を取りに行っている間に退治したであります」
敬礼して言った。
「はあ?」
一瞬、からかわれたのかと思ったが、どうやら幽体離脱をして、地下の制御盤がある部屋にいた襲撃者のもう一人を倒したらしい。
「どう? 璃里さんより私の方が役に立つでしょ?」
ありさはドヤ顔で言ってのけた。璃里さんとは、俺の妻の樹里のお姉さんだ。元警察庁の官僚だった璃里さんより役に立つと言い切るとは大した自信だが、確かにそうかも知れない。
「そうだな」
そう返事をしないと話が長くなる予感がしたので、俺は愛想笑いをして言った。ありさはフフンと鼻を鳴らし、
「二人を締め上げて、全部吐かせようか?」
腕まくりをして気絶したままの襲撃者をニヤリとして見下ろした。
「それは蘭達に任せろ。俺達は土方さんと弁護士先生を守るのが仕事だ」
俺はドアを乗り越えて廊下に戻り、襲撃者を跨いでリビングダイニングに向かった。
「はいはい」
ありさは肩を竦めて俺について来た。その時、明かりが点いた。
「警備員さん達がようやく地下室に辿り着いたようね」
ありさが明かりの点いた蛍光灯を見上げて言った。俺はまだ震えている坂本弁護士と土方さんのそばにしゃがみ込んで、
「片づきましたよ。もう大丈夫です」
すると今度は二人が飛びついて来たので、俺はそのまま床に倒れてしまった。一見すると、俺は二人の女性に押し倒されたように見えなくもない。
「樹里ちゃんに言いつけちゃうぞ、左京」
ありさが半目で言う。
「ば、バカヤロウ、不可抗力だよ」
俺は内心焦っていたが、冷静を装って言い返した。
「ごめんなさい、杉下さん」
先生と土方さんは恥ずかしそうにそう言うと、俺から慌てて離れた。
「賊の顔を確認できますか?」
俺は土方さんに尋ねた。土方さんは不安そうに坂本弁護士を見た。先生は黙って頷いた。
「はい」
土方さんは意を決した目で俺を見て応じた。俺は立ち上がり、廊下へ歩き出す。それに土方さん、弁護士先生、ありさの順で続いた。俺は襲撃者の目出し帽を取った。中から現れたのは、白目を剥いたままの顔に大きな切り傷のある男だった。気質には見えない。暴力団関係者だろうか?
「見た事がない人です」
土方さんの答えは予想通りだった。どう見ても、国土交通省にはいない顔だったからだ。
「こいつ、何者だ?」
俺は無駄だと思いながらも、服のポケットを探った。何も出て来ない。その辺は抜かりがないか。
「地下室にいたのも、そっち系の顔してたわね。やばい人達が絡んでいるようね、左京」
ありさが真剣な顔で言う。俺も想像以上の展開に嫌な汗を掻いていた。念のために弁護士先生を見た。
「私も知りません。暴力団の人は何人か関わった事がありますが、知らない顔です」
坂本先生はキッパリとした口調で言った。俺は襲撃者が落とした銃をハンカチで包んで拾い、弾を抜き出した。
「やり方が粗っぽ過ぎる気がする。何をそんなに焦っているんだろうというくらい乱暴だ」
俺はどうにもその事が腑に落ちなかった。