動き出した敵
予想通りとでも言うべきなのだろうか? 土方歳子さんを襲撃しようとしたのは、彼女の元同僚でかつてストーカー行為もした設楽道茂だった。よく見ると青白くて痩せ細った小柄な男だ。この体格なら、元刑事のありさの敵ではない。特技の「幽体離脱」を使うまでもなかっただろう。
「先生、警備システムはあまり役立たなかったようですね? 賊の侵入をあっさり許してしまったのですから」
俺は仕返しとばかりに坂本龍子弁護士に言った。すると弁護士先生はニヤリとして、
「そうでもありませんよ、杉下さん。警備会社から警察に通報が行っています。もうすぐ捜査員が駆けつけるはずです」
何故か勝ち誇った顔で言い返された。本当はかなりムッとしたのだが、笑顔は絶やさずに、
「そうなんですか」
妻の樹里の口癖で対応した。そして、ある事に思い当たった。
「しかし、警察を信用していないのに犯人を引き渡してしまっていいのですかね?」
皮肉という調味料をこれでもかという具合に効かせて言ってやった。
「もちろん、警察は信用していませんが、利用するのは差し支えありませんわ」
弁護士先生はついさっき、純喫茶JINのマスターが言った言葉を使ってきた。マスターめ、余計な知恵をつけやがって……。
そんな時間つぶしのようなやり取りをしているうちにドアフォンが鳴った。
「失礼」
坂本弁護士は作り笑顔だとはっきりわかる表情で言うと、玄関へ歩いて行き、ドアフォンの受話器を取った。
「坂本です」
一拍置いて、相手が応えた。
「警視庁の平井です。暴漢に襲われたと通報されたのはこちらですか?」
駆けつけたのは、何と元同僚の平井(旧姓:神戸)蘭だった。近くにいたのだろうか?
「蘭も災難ね」
ありさが小声で言い、肩を竦める。俺も蘭に同情した。さっきの舗道でのやり取りを見る限り、蘭と坂本弁護士は来世になっても意見が合わないと思われたからだ。
「そうです。どうぞお入りください」
弁護士先生はドアのロックを外して蘭達を中に入れた。
「あ」
ありさが俺の背後に身を潜めた。蘭と一緒にありさの夫である加藤も現れたからだ。加藤は俺を容疑者を見る目で睨みつけた。悪い事にありさが俺にすがりついているように見えるのだ。
「ありさ、離れろ。加藤が誤解するぞ」
俺は揉め事が起こらないうちにとありさに囁いた。ところが、加藤は俺を一睨みしただけで何も言わずに暴漢の設楽が倒れている方へと蘭と共に歩き出した。恐らくだが、蘭が加藤に忠告したのだろう。加藤が俺と揉めれば、ますます帰宅が遅くなるからだ。
「左京、考え過ぎよ。加藤君はヤキモチ焼きだけど、そこまでバカじゃないわ」
ありさは実はホッとしたくせにそんな事を言い出した。とことん能天気な女だ。付き合ったりしなくて正解だった。
「本庁から連絡が入った時、耳を疑いましたよ。あれだけ警察不信の坂本先生が通報してくるなんて思いもしませんでしたから」
蘭は早速強烈なジャブを放ってきた。顔には皮肉に満ちた笑みを浮かべている。
「お生憎様です、平井警部。通報したのは私ではなくて、警備会社のスタッフですわ」
坂本先生も一歩も引くつもりがないらしく、闘志満々の顔で言い返す。土方さんは二人の間に飛び交う火花が見えるのか、ずっと怯えていた。
「あら、そうでしたか」
蘭はオホホと似合わない笑い方をすると、仕事に取りかかった。土方さんは襲撃者が元同僚で、以前ストーカー行為を働いたのも話した。
「なるほど。私怨が動機でしょうか?」
蘭はわかっていながら意図的に惚けて訊いたようだ。坂本弁護士がイラついた表情を見せる。
「違います。先程の一件と間違いなく繋がりがあります。この男は利用されただけです」
弁護士先生は蘭に詰め寄った。蘭は一歩下がってから、
「という事は、全てお話してくださるという理解でよろしいのでしょうか?」
また嫌味たっぷりの言葉を繰り出した。負けるのが大嫌いだからな、蘭は。ところが負けるのが嫌いなのは、弁護士先生も同じみたいだ。
「全て話す? そんなつもりはありません。全部そちらでお調べになればいいでしょう?」
あくまで何も話すつもりはないし、警察に協力するつもりはないようだ。
「そうですか、よくわかりました。では貴女のお嫌いな警察がその威信にかけても今回の事件は細大漏らさず調べ尽くしましょう。またご連絡致します。加藤君、容疑者を頼むわよ」
蘭は捨て台詞のようにそう言い放つと、サッサとエントランスを出て行ってしまった。
「杉下、後で話がある」
加藤はようやく意識を回復した容疑者を急き立てながら俺に囁いた。あの顔で耳元で何か言われると地獄の使いの声に聞こえるから始末が悪い。俺は二人が退室したのを見届けてから、弁護士先生に目を向けた。
「先生、あそこまで挑発めいた事を言ってしまったら、あちらからの情報は何も入って来なくなりますよ」
俺は呆れ気味に言った。しかし坂本弁護士は、
「大丈夫です。あの警部さんは杉下さんに気がありますから、杉下さんが尋ねれば、何でも話してくれますよ」
とんでもない事を言った。
「あら、先生、鋭いですね。確かにあの人は未だに杉下に未練たらたらなんですよ」
ありさまでが調子に乗ってきた。バカ女め、ちょっと誉めたと思ったら、すぐにこういうオチャラケを始めやがる。
「でも、どうしてそんな事に気づいたんですか?」
ありさは坂本弁護士ににじり寄って尋ねた。すると何故か弁護士先生は顔を赤らめた。
「いえ、その、あの警部さんの杉下さんを見る目でわかったんですよ」
蘭の俺を見る目は獲物を狙う肉食獣の目にしか見えなかったが? 何を言っているんだ、この先生は? どうもよくわからん。
「では、私の部屋にご案内します。どうぞ」
弁護士先生は話をはぐらかしたいのか、突然そう宣言すると事務所を出て行く。土方さんが慌ててそれの続き、ありさは俺を見て肩を竦めてからついて行く。俺は一緒に行っても仕方がないので、その場で待つつもりだったが、
「左京、何してるのよ。早く来なさいよ」
ありさが呼びに来た。
「何でだよ? お前だけ行けばいいだろう?」
俺は面倒臭そうに応じた。するとありさは、
「あんた、とことん女心がわからないわね。弁護士先生はあんたと一緒にいたいのよ」
「はあ?」
またありさのトチ狂った迷推理が始まったようだ。まあ、何にしても一度くらいは部屋の間取りを見ておくのもいいだろうと自分を納得させ、ありさと共に事務所を出た。
「弁護士先生が蘭を敵視するのは、蘭があんたに色目を使っていると思っているからなのよ」
ありさは廊下を歩きながら小声で言った。前を歩く坂本弁護士と土方さんは話し込んでいるのでこちらの会話は聞こえていないようだ。
「何でそんな事がわかるんだよ?」
俺はありさの推理の根拠を訊いた。ありさはニッとして、
「あんたが事務所に来る間にいろいろ話したのよ。どうして警察を敵視しているのかとか、何故左京に仕事を依頼したのかとかね」
「警察を信用しないのは弁護士の職業病みたいなもんだし、俺に依頼したのは同じビルに事務所を構えているからだろ?」
何をくだらない事を語っているんだと思いながら応じると、
「やっぱり何もわかってないわね、あんたは。付き合わなくて正解だったわ」
俺が思っていた事をそっくり返して来た。非常に腹立たしかった。
弁護士先生の部屋は、想像していたのと大違いで、女性らしさに溢れたというか、少女趣味全開のような内装だった。玄関マットもスリッパも掛け時計もドアノブのカバーも全部例の猫のキャラクターだらけだ。まあ、若い女性だから気持ち悪いという感覚にはならないが、ちょっと違和感があった。廊下を抜けて行く間に浴室とトイレと寝室らしき部屋があり、その先のリビングダイニングには何故かあちこちに照明があり、必要以上に明るくなっている感じだ。二人がけのソファの一方にはでっかい猫のぬいぐるみがまるで主のようにデンと陣取っていた。
「あまりジロジロ見回さないでください」
先生は俺がキョロキョロしているのに気づき、ムッとした顔で言った。
「ああ、すみません。想像していたのと違って、女の子らしい部屋だなと思ったんですよ」
ここで揉めても意味がないので、心にもない事を言ってしまう自分を誉めたくなった。
「そ、そうですか」
何か言い返されるかと思ったのだが、坂本弁護士は俯いて聞こえるか聞こえないかという声でそう言っただけだった。
「ナイス、左京」
ありさが耳元で囁いたので、全身総毛立ちそうになった。
「あのな」
いい加減腹に据えかねたので、文句を言ってやろうと彼女を見た時だった。
「え?」
突然、視界を奪われた。部屋の明かりが全部消えてしまったのだ。まさに何も見えない闇の中に放り込まれたようだ。
「ちょっと、坂本先生、電気料くらい払ってくださいよ、儲かっているんだから」
ありさの耳障りな声が間近で響いてうるさい。すると弁護士先生の声が、
「電気料は口座振替です! 滞納なんかしていません!」
怒気の籠ったものだった。という事は?
「まずい、次が来たんだ。懐中電灯とかはないのか?」
俺はポケットから携帯を取り出して開いた。
「停電じゃないの?」
呑気なありさの声がする。俺は例の猫の模様の絵柄の遮光カーテンの隙間から見える外を指差して、
「バカヤロウ、窓の外を見てみろ、周りの建物は明かりが点いてるだろ? ここだけ消えてるんだよ!」
その途端、土方さんの小さな悲鳴が聞こえた。彼女はその場にしゃがみ込んでしまったらしい。
「大丈夫ですか、土方さん?」
俺は確認のために携帯を動かした。その途端に左肩に何かがのし掛かってきた。
「坂本先生?」
ありさは自分の携帯を使って懐中電灯を探しているのが見えたから、そういう事になる。
「ご、ごめんなさい。私、暗いのが苦手で……」
弁護士先生の声が震えているのがわかった。なるほど、だから部屋の明かりを全部点けていたのか。
「そうか。わかった。じっとしていろ」
俺はしがみついてくる坂本弁護士を厄介に思いながらも、敵の気配を探ろうとした。