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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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純喫茶JIN

 若い女性二人を追いかけて階段を駆け降りたせいか、膝が笑い始めた俺は、迷う事なくエレベーターを選択し、昇降ボタンを押した。

「左京、膝が痛いんでしょ?」

 同級生のはずなのに全くそんな兆候がないありさは、俺を哀れむような目で見る。カチンと来たが、今こいつと言い争っている暇はない。とにかく安全な場所に行き、今後の事を話し合わなければならない。

「大丈夫ですか?」

 土方ひじかた歳子さいこさんが心配そうな顔で訊いてくれた。この人にそう言われると、何だかとても嬉しいのは、弱っている証拠だろうか?

「土方さん、それも杉下さんの女性を油断させるテクニックかも知れませんから、不用意に近づかない方がいいですよ」

 坂本さかもと龍子りょうこ弁護士が酷い事を言う。またカチンと来たが、ここは我慢だ。

「お気遣いなく。歩くのが好きじゃないんですよ」

 俺は坂本弁護士の言葉を無視して、土方さんに微笑んで応じた。すると土方さんは坂本弁護士の言葉に反応してしまったのか、

「そ、そうですか」

 慌てて彼女の背後に隠れた。またちょっとだけショックだ。その時、タイミングがいいのか悪いのか、チャイムが鳴って扉が開いた。俺は考えなしに乗り込もうとする坂本弁護士と土方さんを押し止め、中を覗き込んで誰も乗っていない事を確認した。

「異常なしです」

 振り返って告げるより早く、ありさが二人を誘導していた。


 ビルを出るまで、これと言って変わった事もなかった。俺は一安心して、裏路地へと歩を進める。坂本弁護士と土方さんは、大通りの明かりがあまり届いていない場所へと進む俺を訝しそうに見ていたが、

「心配要らないですよ。今向かっているのは、とても信頼が置ける人のところです」

 ありさが珍しくまともなフォローをしてくれた。さすがに事務所が荒らされたのを見て、本格的に危険だと感じているのだろう。彼女も警視庁にいたのだ。そういうことには一般人以上に勘が働く。

「この先です」

 俺は裏通りを進み、そこから更に細くなった路地へと曲がった。坂本弁護士と土方さんが顔を見合わせているのが視界の隅で見えたが、気にせずに歩いた。

 そこは昔からある路地裏。何十年も前から存在している昭和の名残のような佇まい。俺やありさには懐かしく、坂本弁護士や土方さんには新鮮に映るだろう。くすんだのか、元からその色なのか、薄黄色の壁のビルを覆う蔦。その一階に俺の「秘密基地」はあった。

「純喫茶JIN?」

 坂本弁護士が入り口にある薄汚れた白い看板を見上げて呟いた。土方さんはそれを食い入るように見つめている。彼女達は恐らく、喫茶店なんて入った事がないかも知れない。今時のコーヒーショップやファストフード店とは雰囲気を異にする店構えだ。ドアを押し開けると、カランコロンとベルの音がする。ふと、四年前、妻の樹里とバッタリ再会したあの怪しい喫茶店を思い出した。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥でカップを拭いている愛想の欠片もない胡麻塩頭の老人がこちらを見もせずに言った。

「マスター、奥、空いてるかな?」

 俺は老人に尋ねた。すると老人はついと顔を上げて俺達を視界に捉え、

「空いてるよ。勝手に入って」

 そう言うと、またカップを磨き始める。坂本弁護士がムッとして何かを言おうとしたが、ありさが止めた。俺は苦笑いして、

「ありがとう」

 それだけ言うと、マスターの前を横切り、誰もいない店内を進んで、その奥にある個室に向かった。そこは仕事がなくて気が滅入った時、一人で良く来ていた隠れ家だった。ありさに見つけられ、入り浸られたので、しばらく来ていなかったのだ。

「さ、奥へ」

 俺は坂本弁護士と土方さんを先に入らせ、窓のない狭苦しい部屋に足を踏み入れた。中には四人掛けのテーブルと椅子がある。坂本弁護士と土方さんは奥に並んで座り、手前に俺とありさが座った。

「ここなら外から狙われる事もないし、マスターの目を盗んで忍び込む事もできない」

 俺はウインドブレーカーを脱ぎながら言った。坂本弁護士は周囲を見回しながら頷いた。土方さんは落ち着きなくソワソワしている。どうしたのか訊こうとしたら、

「トイレなら、この奥よ」

 ありさが言った。土方さんは恥ずかしそうに俯き、部屋を出て行った。

「私も」

 坂本弁護士も我慢してたのだろうか、すぐに後を追った。俺はこれ幸いとありさを見た。

「二十四時間片時も離れずにガードしてくれと言われても、相手は女性だ。そういう訳にもいかないだろう」

「いいわよ、左京。私が歳子ちゃんのアパートに泊まり込んであげる」

 何も言わないうちにありさがそう言い、何故かウィンクしてきた。気持ち悪かったが、機嫌を損ねて話をややこしくしてもまずいので、

「そうか。ありがとう、ありさ」

 ごく普通に礼を言ったのだが、

「何よ、左京? 妙に優しいわね? 加藤君に脅かされた?」

 ありさが怪訝そうに俺の顔を覗き込む。加藤君? 何だ、こいつ、自分の夫を名字で呼んでいるのか? もしかして仮面夫婦か?

「あいつの顔はいつも脅かしているようなものだろうが、違うよ。感謝しているんだよ」

 俺は真顔で応じた。ありさは肩を竦めて、

「そういう事にしておきましょうか。それよりね」

 そこから急に声を低くしたありさは、顔を近づけて、

「弁護士先生、左京に気があるわよ。あまり邪険にしないでね」

「はあ?」

 俺はありさのとんでもないバカ推理に唖然としてしまった。坂本弁護士が俺に気がある? 寝言は寝て言えって感じだ。

「そんな訳ないだろ? 俺の顔を見ると文句を言うか食ってかかってくるか、なんだぜ?」

 俺はありさの迷推理を鼻で笑って一蹴した。ところがありさは、

「ホント、あんたは私と付き合っていた頃から鈍感なのは変わらないわね」

「いやいや、お前とは付き合った事はないぞ。今思い出したが」

 慌てて反論したところで、二人が「連れション」からご帰還した。

「仲がよろしい事で」

 坂本弁護士が早速嫌味爆弾を投下してきた。確かに俺とありさは唾がかかるくらいの距離で話していた。俺は咳払いをして仕切り直し、

「今、加藤と話し合っていたのですが、土方さんのガードは、日中は私、夜間は加藤でしようと思うのですが?」

 土方さんはそれで納得したような表情だったが、何故か弁護士先生が、

「それでは夜間のガードが手薄になります。加藤さんは事務員さんなんでしょう?」

 その言葉を待っていたかのようにありさがニヤリとした。

「ご心配なく。私も元警視庁の刑事です。一通りの護身術や格闘技には覚えがありますので」

 ありさの返しを予想していなかったのか、坂本弁護士は目を見開いて驚いていた。

「わ、わかりました。ではその態勢でお願いするとして……」

 やっと口を開いてそう切り出した時、どこからか、気の抜けた動物の鳴き声のような音が聞こえた。何だろうと周囲を見回していると、

「すみません、私です」

 坂本弁護士が顔を赤らめて俯いた。ああ、腹の虫が鳴ったのか? そう言えば、もう夕食の時間だ。それに、虫が声を上げたのもわかる気がした。厨房の方から、いい匂いが漂ってきていたのだ。こいつはマスターの十八番おはこのカレーの匂いだ。

「はいよ」

 まるで坂本弁護士の腹の虫の叫びが聞こえたかのように、マスターがトレイを持って来た。

「おう、ありがとう、マスター」

 俺はトレイを受け取り、テーブルに置いた。途端に口の中がよだれの洪水になりそうなくらい美味しそうなカレーライスが目に入った。坂本弁護士は余程腹が減っているのか、唾を飲み込んだ。マスターは無愛想なままで部屋を出て行った。

「さてと。使い古された言葉だけど、腹が減っては戦は出来ぬ、だから、サッサと食っちまいましょうか」

 俺は二人にスプーンを渡すと、皿を持ち上げて一口頬張った。

「いただきます」

 坂本弁護士と土方さんは目配せし合ってから両手を合わせて異口同音に言った。

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