迫り来る影
夕闇に包まれ始めた駅前通りが、いつもとは違った喧騒に包まれていた。赤色灯を明滅させている数台のパトカーと鑑識課の大型ワゴン車。そして、警視庁捜査第一課の警部である平井蘭と加藤真澄が同乗してきた黒塗りのセダン。俺の依頼人である坂本弁護士と土方歳子さんを轢き殺そうとした黒塗りのワゴン車が残していった塗装片とウィンカーの破損片は鑑識が回収し、「keepout」のテープが野次馬と化した通行人を追い出す。
「全く、今日は早く帰れると思ったのにさ」
新婚の蘭は、ベタ惚れして一緒になった平井拓司警部補とデートの約束をしていたそうだ。そんな事は俺には関係ないし、そもそも警察官とはそういう仕事だ。それが嫌なら専業主婦にでも何でもなればすむ事だ。おっと、妻の樹里に生活費の大半を出してもらっている俺がそんな偉そうな事を言ってはいけないか。
「そいつは気の毒だったな」
苦笑いしてさも申し訳なさそうに言う。蘭はフンと鼻を鳴らして、
「あんたに言った訳じゃないわよ、左京」
蘭はかつての同僚で、大学時代の同期生でもあるありさを見た。しかし、ありさの方はその視線を意識的に避けているかのようにこちらを見ようとしない。何故なら、蘭に連絡を入れたのはありさだからだ。彼女が夫の平井警部補とデートなのを知っていて連絡したのだから、本当に性格が悪い女だ。
「そもそも、これは捜査一課の管轄じゃないわ」
蘭はテキパキと目撃者の事情聴取と現状保存をしている交通課の警官を見ながら呟いた。確かにその通りだが、大元を辿ればそうも言っていられないだろう。只、蘭達にどこまで話していいのかわからない。何しろ、当事者の坂本弁護士は、
「心当たりはありません」
そう証言しているからだ。彼女はどうしても警察が信用できないらしい。
「おい、杉下」
ボンヤリと交通課の作業を眺めていた俺に、元同僚で、ありさの夫でもある加藤が声をかけてきた。
「何だよ、バ加藤?」
つい習慣で渾名を言ってしまった。
「バをつけるな!」
加藤は激怒した。俺は、
「悪かったよ。つい癖でな」
心のこもっていない謝罪をした。加藤は蘭に無理矢理連れて来られたようだ。ムスッとした顔で蘭を一睨みしてからまた俺を見る。奴は知らない人が見たら、犯罪者にしか見えないような恐ろしい顔をしている。捜査一課より、捜査四課がお似合いだ。暴力団にも奴ほど凄みのある顔をしている者はいないだろう。
「それはともかく」
加藤は俺を現場から離れたところに引っ張っていくと、
「お前、まさかありさと不倫してるんじゃないだろうな?」
どこをどう押すとそんな疑問が湧いてくるのか知りたいような馬鹿げた事を訊いて来た。成り行きで結婚した加藤とありさだが、加藤の方はありさを本当に愛しているようだ。ありさはいい加減でどうしようもないチャランポランな性格だが、美人ではあるので、キャバ嬢にしかモテた事がない加藤にとっては勿体ないくらいなのだろう。
「そんな訳ないだろ? 俺は妻帯者だぜ」
俺は話すのも面倒臭いという顔をして加藤を見た。すると加藤は不満そうに腕組みをして、
「だけど、お前とありさは昔付き合っていただろう?」
「いつの話だよ? それは蘭と付き合うより前の事だぞ」
呆れてものが言えないとはこういう時に使うのだろう。バカバカしい。
「バカ話はそれくらいにして、左京。ちょっと訊きたい事があるわ」
さっきまでつまらなそうに現場検証を見ていた蘭が、刑事の顔になって俺と加藤の間に割り込んで来た。
「訊きたい事?」
俺は加藤を押し退けて蘭を見た。
「おい、神戸、じゃなかった、平井、まだ俺の話は終わってないんだぞ」
加藤がその怖い顔を更に険しくして蘭に言った。
「個人的な話なら後にしてちょうだい、加藤君。私が訊きたいのは、事件の事なんだから」
蘭は生まれつき鋭い目をより鋭くして加藤を睨み返した。
「わ、わかった……」
顔の迫力なら断然優位のはずの加藤だが、蘭の目には敵わないようだ。いや、実際俺も警視庁にいた時は、蘭の目力にはビビった事が何回もある。蘭は勝ち誇ったように加藤を見てから、視線をゆっくりと俺に移した。思わず唾を飲み込んでしまいそうになる。
「あの弁護士の先生は知らぬ存ぜぬの一点張りだけど、彼女の依頼人の土方さんは脅えているわ。あの怖がりよう、尋常じゃないのよね。あんた、何か知ってるでしょ?」
蘭は目を細めて俺を見る。嫌な汗が背中を伝わるのがわかる。あの弁護士、態度が悪過ぎるんだよ。あの女があまりにも非協力的だから、蘭は何か裏があると読んだのだろう。全く、考えなしの先生だ。しかも、土方さんは、轢かれそうになったのにしては、脅え方が激し過ぎるしな。バレバレっていう事だ。どうしたものかと考えていた時、弁護士先生が大股で近づいて来た。
「杉下さん、余計な事は話さなくていいですよ。警察は信用できないですから」
坂本弁護士のその一言が蘭の「ご機嫌」を更に損ねていく。
「警察を信用できないと言う人は、多くの場合、罪を犯している事が多いのですよね、坂本先生」
闘志満々の顔で蘭は坂本弁護士を睨んだ。その目に俺と加藤は思わず後退りしそうなくらいビビってしまった。
「警察官というのは、因果なお仕事なんですね、平井警部。そういう風に誰でも犯罪者だという目で見てしまうのですから」
坂本弁護士は負けていなかった。凄い。蘭のあの目にビビらないとは、尊敬してしまいそうだ。
「いいでしょう。きちんと手続きを踏まないとあれこれ言いかがりをつけられてしまいますから、今日のところは引き下がります。後日改めてお話を伺わせてください」
蘭は意外にもあっさりと引き下がった。平井警部補とのデートを優先したのだろうか? そんな事はないか。
「杉下、ありさに変な気を起こすなよ」
加藤はまだ妄想世界から抜け出していないらしく、そんな捨て台詞を吐いて去って行った。
「杉下さん、いくら元同僚でも、気を許してはダメですよ。警察は全部つながっているのですから」
坂本弁護士は唾がかかりそうなくらい顔を近づけて言った。
「以後気をつけます」
俺は苦笑いして応じた。
革ジャンも着ないで外に出たので、危うく風邪を引きそうになった。俺は坂本弁護士と土方さんを改めて事務所に連れて行った。ありさはどこにいたのか、いつの間にかドアの前で待っていた。
「どうした、ありさ?」
いつになく強張った表情なので、疑問に思い、尋ねた。するとありさは、
「やっぱりやばいわ、左京」
そう言ってドアを開き、顎で中を示した。俺はギクッとして事務所に飛び込んだ。
「おいおい……」
そこには目を疑う光景が広がっていた。机は倒され、書類はばら撒かれ、一張羅の革ジャンは切り裂かれていた。
「これは……」
後から入って来た坂本弁護士も目を見開いている。土方さんは声も出せないようだ。
「貴女方がここに来た事も把握されているようだ。場所を変えようか」
俺は隅にあるロッカーからバーゲンで買った安物の黒のウィンドブレーカーを取り出して羽織った。
「どこに行くんですか?」
坂本弁護士が探るように目で俺を見上げる。土方さんは黙ったまま俺を見た。
「秘密基地ですよ」
俺は三人を追い立てるように事務所を出て鍵を締めると、得意顔でそう言った。弁護士と土方さんはキョトンとし、ありさは呆れ顔になった。
「何が秘密基地よ」
俺はそんな冷たい反応を無視し、
「秘密基地だろ、あそこは。誰にも邪魔されないところなんだからさ」
キーホルダーをポケットにねじ込み、坂本弁護士と土方さんを見る。
「それほど遠くではないです。急ぎましょう」
二人は顔を見合わせ、俺に続いた。ありさは肩を竦め、二人をガードするように歩き始めた。