早速危機一髪
「加藤君、もう定時過ぎてるから、上がっていいよ」
俺は普段はタイムレコーダーの時計が五時を指すと同時に風のように事務所を出て行くありさを知っていたので、五時半になろうとしているのに帰らない彼女に言った。
「いえ、今日はクライアント様がいらっしゃいますので、残業します」
ありさは何故かドヤ顔で応じて来た。何を企んでいるんだ? 当事務所には残業手当などという華麗なものはないぞ。
「仕事熱心な事務員さんですね」
坂本弁護士が嫌味ったらしい笑顔で言った。ムカついたが、今日は大事な依頼人として来ているので、我慢した。そして、もう一度もう一人の依頼人である土方歳子さんを見た。俺の妻の樹里もかなりの童顔だが、この人はそれ以上だ。何しろどう見ても高校生、化粧をしていなければ、中学生に見えてしまう。樹里の同僚の赤城何とかというメイドの子も子供っぽいが、土方さんはそれに匹敵している。土方さんは俺の視線に気づき、ビクッとした。まだ怖がられているのかと思うと、少しだけ落ち込む。ありさめ、お前が余計な事を言うからだ。
「私自身、何も根拠はないのですが、一人心当たりがあります」
土方さんは俯き加減のままで話し出した。坂本弁護士も彼女に視線を向けた。ありさも横目でこちらを見ている。注目の的になっているのを感じたのか、土方さんはますます顔を下に向けてしまった。俺は坂本弁護士を見た。坂本弁護士も俺を見た。俺は、
「あんたが訊いてくれ」
そうアイコンタクトをしたつもりだったのだが、何故か坂本弁護士は顔を赤らめて、
「な、何ですか、杉下さん! 言いたい事があるのなら、はっきり仰ってください!」
おかしな返しをして来た。もしかして鈍いのか、この女は? 仕方がない。俺は溜息を吐いて、
「それは誰ですか?」
土方さんに質問した。土方さんは俯いた顔をチラッと上げて俺を見たが、また俯いてしまい、
「設楽道茂という同期の男性です。廊下の隅でこそこそと携帯で話をしている事がありました」
それだけではその設楽という男を疑う事はできない。俺が質問を続けようとした時、
「もちろん、それだけでは疑う理由にもならないのですが、彼は大手ゼネコンの社員と密会していたんです」
土方さんがようやく顔を上げて話してくれた。大手ゼネコンか。キナ臭いな。
「そのゼネコンは、先程お話した新規の高速道路の工事の入札に参加予定の会社でした」
土方さんの言葉に俺は眉をひそめて、
「それはまずいんじゃないですか? 担当部署の公務員が入札業者の社員と会うなんて」
「その通りです。私、偶然彼が料亭の前でその社員の方と話しているのを見かけてしまったので、設楽君に注意したんです」
土方さんが注意? ちょっと想像がつかないが、職場での彼女は違う顔だったのだろうか?
「すると設楽君は『大学の友人だよ。偶然会ったんだ』と言い訳にもならない事を言いました。でも、あり得ないんです」
土方さんの謎めいた言いように俺は興味をそそられた。
「何故です?」
「設楽君は大学時代孤立していて、友人は一人もいなかったって彼と同じ学部の人に聞いた事があるんです」
土方さんは俺を射るような目で見て言った。さっきまでのおどおどした彼女とは違って、妙に興奮している。どういう事だろう?
「その設楽という男性が、土方さんにストーカー行為をしていた人物なんです」
坂本弁護士が顔を扇ぎながら口を挟んだ。なるほど、そういう事か。
「そんな男に注意なんかしたら、危険なんじゃないですか?」
気になったので尋ねてみた。すると土方さんは、
「もう大丈夫です。私、護身のために合気道を習ってますから」
「そうですか」
俺は苦笑いしてしまった。男が本気で女を襲おうとしたら、付け焼刃の格闘術などほとんど役に立たないものだ。だが、そんな事を指摘して、また萎縮されても困るので、何も言わない事にした。
「それに設楽君も坂本先生に警告されてから、一切私をつけたりしなくなりましたから」
土方さんは微笑んで坂本弁護士を見た。もしかすると、護身術よりこの弁護士の存在の方が設楽という男には脅威かも知れないな。やかましい女は格闘系の女より始末が悪いからな。
「何ですか、杉下さん? 何か言いたそうですね?」
今度は坂本弁護士が俺を睨んだ。何なんだ、この女は? 意味不明だ。
「いや、別に。弁護士の先生も、いろいろと大変だなあって思っただけですよ」
俺は作り笑いで応じた。そして別の疑問が浮かんだので、土方さんを見る。
「しかし、その設楽という男、入札に影響力を行使できるほどの役職ではないですよね?」
土方さんの同期ならば、またヒラだろう。何の権限も持っていない男がゼネコンの社員と会っても仕方がない。
「設楽君は只の連絡係だと思います。彼を動かしているのは多分、芝塚課長です」
土方さんは俺の問いかけに頷きながら言った。
「その芝塚っていうのが、貴女を陥れた上司ですね?」
俺は思わず身を乗り出した。土方さんは途端に身を引き、
「は、はい」
またビビらせてしまったのか? 傷つくなあ、そのリアクション。だが、段々読めてきたぞ。芝塚課長は、土方さんに何かを気づかれたと感じ、彼女を辞職に追い込むためにUSBの騒動を起こした。もしかすると、そもそもそんなUSBは存在しないのかも知れないな。
「そして、これは推測に過ぎませんが、芝塚課長の背後には、更に黒幕がいると思われます」
また坂本弁護士がしゃしゃり出てきた。しかも何故か得意そうな顔だ。何のつもりだ? もしかして、俺が必要以上に土方さんに近づかないようにガードしているのか? それも癪に障るぞ。
「誰なんですか、それは?」
「その業界では新興勢力の鷲鷹建設の代表取締役社長の鷲鷹重蔵氏です」
坂本弁護士は見るからにどうだという顔で言ってのけた。しかし、俺にはその名に覚えがない。全然ピンと来ていないのだ。途端に坂本弁護士の表情が呆れ顔に変わった。
「もしかして、知らないんですか、鷲鷹建設を?」
俺は苦笑いするしかなかった。
「うちの所長は世情に疎いんです。近所の猫と女子高生の事なら大概の事は知っていますけど」
またありさがトンデモ発言をした。土方さんの顔がさっきより引きつった。
「先生、本当にこの人に頼んで大丈夫なんですか?」
土方さんは俺にも聞こえるような声で坂本弁護士に尋ねた。ありさめ、これで依頼がパアになったら、クビにしてやるぞ! そのため半分期待してしまった。ところが俺の予想と違う展開になった。
「この人は、今でこそ落ちぶれた探偵ですが、警視庁の特捜班の敏腕警部と言われていたのです。大丈夫です。私を信じてください」
坂本弁護士が一応フォローと思われる事を言ってくれた。喜んでいいのか、悲しむべきなのか微妙な状態だ。あれ? でもどうしてこの女、俺が警視庁にいた事を知ってるんだ? そんな話した事ないんだけどな。しかも、杉下さんを信じなさいとは言わずに私を信じてくださいっていうのも気に入らない。
「とにかく、土方さんはそのゼネコンに命を狙われているのは間違いないのです。二十四時間、片時も離れずに警護してください」
また坂本弁護士の顔が近い。興奮すると顔を近づける癖があるようだ。俺は身を引きながら、
「それなら、俺の知り合いの刑事を紹介しますよ。その方が安全確実です」
女性の警護を男の俺がするのはまずい。樹里の手前というだけでなく、すでにありさのせいで土方さんの信頼度はがた落ちなんだし。そう思って、蘭を紹介しようとしたのだが、
「何言ってるんですか!? 私は警察が信用できないから、貴方のところに来たんです!」
坂本弁護士は更に身を乗り出して俺にまさしく食ってかかってきた。
「杉下とキスでもするおつもりですか、坂本先生?」
ありさが目を細めて嫌味を言った。すると坂本弁護士は茹蛸に負けないくらい赤くなって引き下がった。
「そ、そんなつもりはありません!」
いや、実際俺はそう感じてしまうくらい彼女の顔をアップで見ていた。美人だが、そんな気にはなれないくらい感情の起伏が激しい女だ。疲れてしまう。
「土方さんを襲った相手が窃盗犯だと判断したので、警察は信用できないという事ですか?」
俺は頭から湯気が出そうな坂本弁護士を見て尋ねた。彼女は俯いて顔を手で扇ぎ、
「そうです。それに鷲鷹建設に入っている警備会社は、警視庁のOBがたくさん天下っている会社なんです。だから余計警察は信用できないんです」
「なるほど」
先輩の言う事は絶対の世界だからな、警察は。OBがよせと言えば、引き下がるのは確かだ。この女の言う事にも一理ある。
「それなら、もっと大きな探偵事務所に依頼した方がいいですよ」
ありさが更にトンデモ発言をする。確かに手に負えないような様相を呈して来ている事件だが、それを言ったらまずいだろ、バカめ!
「ああ! 土方さんが報酬を支払えないと思っているんですね? だからそんな事を……」
坂本弁護士はムッとした顔で俺とありさを交互に見た。俺は溜息を吐いて、
「そういう事ではなくてですね……」
理由を説明しようとしたのだが、彼女はいきなり立ち上がり、
「土方さん、私の見込み違いでした。この人、昔と違ってとんだ腑抜けになったみたいです! 他所を探しましょう」
一気にそう言うと、驚いて言葉を失っている土方さんを急き立てるようにして事務所から出て行ってしまった。
「え、あ、ちょっと!」
俺は慌てて二人を追いかけた。すると二人は、ここは五階なのに階段を使って降り始めた。健康志向という訳ではなく、只単にエレベーターを待っていると俺に追いつかれると思ったのだろう。
「手のかかる女だ」
俺は舌打ちして彼女達を追った。あれれ? 日頃の運動不足が祟って、息が上がり、足がふらついて来た。坂本弁護士も土方さんもヒールの高い靴を履いているのに離されていく。何て事だ。
「何へたばってるの、左京! 彼女達が襲われたら大変よ!」
いつになく真剣な声と表情で、ありさが俺を追い越して階段を駆け下りて行く。あいつ、逃げ足だけじゃなくて、実際速いのか? などとバカな事を考えている場合ではない。俺は気を取り直して階段を飛び降りるようにして駆けた。
「ちょっと待ってください!」
先にロビーに降りたありさが二人に叫ぶ。しかし、不安そうな顔で振り返った土方さんを引っ張って、弁護士はそのままビルを出て行こうとしていた。
「坂本先生!」
俺は乱れた呼吸を無理に整えて叫んだ。一瞬彼女の足が止まったように見えたのは俺の願望のなさしめる幻だったのだろうか? 結局二人はビルを出てしまった。
「しっかりしてよ、左京」
ありさに背中を押され、俺はビルを出た。既に外は日没後で、二人を探そうと目を凝らして舗道を左右に見ると、今まさにタクシーを拾おうとして車道に乗り出している坂本弁護士とそれにくっついている土方さんが視界に入った。
「坂本先生!」
俺とありさは同時に叫んで走り出す。む? あの車、進行方向がおかしくないか? タクシーの前を走っている黒塗りのワゴン車が坂本弁護士と土方さんに突進しているように見えた俺は、火事場の馬鹿力のように速度を上げた。
「危ない!」
俺は二人の腕を取り、後ろに引っ張った。間一髪のところで、ワゴン車の突進を避ける事ができた。ワゴン車は舗道と車道の段差にぶつかり、タイヤを軋ませながら進行方向を変え、後続車を巧みにかわすとそのまま逃走してしまった。周囲を歩いていた人達が驚いて立ち止まっている。
「ありさ、ナンバーは?」
俺は昔から夜目が利くありさに尋ねた。するとありさは肩を竦めて、
「ナンバープレートが隠されていたわ。素人じゃないわね」
「何だって!?」
やばいんじゃないか? もし、今のが鷲鷹建設の差し金だとしたら、堅気のする事じゃないぞ。
「悪かった、先生。引き受けるよ。俺があんた達を守る」
舗道にへたり込んでしまった坂本弁護士と土方さんに告げた。
「これが手がかりになればいいが」
俺はぶつかった衝撃でワゴン車が残した塗装片とウィンカーの部品の一部を拾い上げた。