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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
見えざる狙撃手
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呑気な依頼人

 妻の樹里のお姉さんである璃里さんからの連絡は、俺を今年最高の衝撃へと導いた。急いで着替えをすませ、火の元と戸締まりをもう一度確認して、愛車をめている駐車場へと走った。それ程の距離ではないのに、息が上がってしまい、改めてもうすぐ四十代になるんだと思い知らされた。革ジャンのポケットからキーを取り出し、ドアを開いてイグニッションを回す。くぐもったようなエンジン音が響き、クラッチを踏んでシフトレバーを動かすと、俺はアクセルを踏み込んで車をスタートさせた。

「あんたは稼ぎが悪いんだから、電車通勤にしなさいよ」

 高校時代からインターバルはあったが、今だに腐れ縁の加藤ありさに言われた事がある。大きなお世話だと言い返したが、実際、樹里の働きがなければ、事務所の維持にも支障を来す程、探偵業はうまくいっていない。だから、気が進まないあの弁護士の絡みの依頼でも受けざるを得ないのだ。前回、あの弁護士先生の持ち込んだ依頼は、危険なものだったが、それに見合う高額な報酬を得られた。ありさが交渉してくれたお陰もあるが、やはり坂本弁護士の手腕もあるのだ。何しろ、最後まで俺に対する警戒心を解いてくれなかった依頼人だったのだから。

「ふう……」

 そこまで考えて、今回の依頼人と思われる女性の事を思い出した。彼女は俺を見てそそくさと駆け去ってしまったのだ。また同じ事になりそうな予感がする。

(いずれにしても、ここ何日か、全く仕事がなかったんだから、贅沢は言ってられない)

 気持ちを切り替える事にした。


 しばらくして、俺は事務所があるビルの地下駐車場に車を乗り入れ、エレベーターホールへと歩き出した。

「え?」

 その時、俺の靴音に混じって、また手動装填ボルトアクションの音が聞こえた。まさかと思ったが、あの狙撃の時、狙撃手スナイパーの顔は黒のニット帽とサングラス、防塵マスクで全く見る事はできなかったが、俺の顔はしっかり見られていたのだ。だが、待て。奴がここを知っている可能性はあるのか? 俺はそれ程有名人か? いろいろ検証してみた結果、空耳だろうと結論を出した。あり得ない。犯人が如何に目がよくて、俺の顔を細部まで見極めたとしても、ここがわかるはずはない。考え過ぎだ。ありさがいたら、

「ビビり過ぎよ」

 そう言って、ゲラゲラ笑っただろう。想像しただけでムカついてしまう。

「あの……」

 そんな事を考えている最中にいきなり後ろから声をかけられたので、俺はギョッとして身構え、振り返った。するとそこには、俺の不審な行動にいぶかしそうな顔をした黒のスーツを着た長身の若い男がいた。右手にはアタッシュケースを持っており、営業マンのようだ。俺は気恥ずかしかったので苦笑いし、

「はい、何でしょう?」

 用件を尋ねた。するとその男は、

「杉下探偵事務所は、このビルでよろしかったですか?」

 思ってもみない事を言われた。俺はしばし男の顔を凝視してしまった。

「あの?」

 更に訝しさを増した男が俺を見る。ハッと我に返り、

「杉下探偵事務所はこのビルの五階ですが?」

 男の次の言葉を促すように語尾を上げてみた。すると男は、

「実は私の婚約者が銃で撃たれたと聞きまして、仕事を切り上げて駆けつけたんです。彼女は今、探偵事務所にいると言っていましたので」

 何という偶然だろう。あの巨乳さんの婚約者にビルの地下駐車場で会うなんて。あ、いや、この際彼女が巨乳なのは直接は関係ない。

「そうでしたか。失礼しました。私がその探偵事務所の所長の杉下左京です」

 俺は革ジャンのポケットから、やや曲がった名刺を取り出して、男に渡した。

「え? そうなんですか」

 男は名刺を受け取ると、素早くスーツの内ポケットから金属製の名刺入れを取り出して、中から一枚まっすぐな名刺を取り、差し出した。

「私は広告代理店の営業をしています、芹沢せりざわしょうと申します」

 俺はその名刺を両手で受け取りながら、

(前回は土方ひじかたで、今回は芹沢か)

 妙に新撰組めいていると思ってしまう。俺は芹沢さんを先導し、エレベーターに乗ると、五階を目指した。エレベーターが到着するまでの間、俺は芹沢さんにあれこれ尋ねた。彼は三十歳で、婚約者の名前は斎藤真琴さん。おいおい、こっちも新撰組絡みかよ。考え過ぎか。出会ったのは芹沢さんの取引先。斉藤さんはそこでアルバイトをしていたそうだ。何回か会ううちに食事でもという事になり、やがて交際に発展、婚約に至ったと。そこまで話が進んだ時、扉が開いた。俺は扉を押さえて芹沢さんを先に降ろし、それに続いて廊下に出た。

「こちらです」

 前に出て、廊下を進み、事務所のドアの前に来た。

「どうぞ、お入りください」

 芹沢さんを通し、俺も中に入る。ちょうどその時、璃里さんが斉藤さんと坂本先生にコーヒーを出しているところだった。

「おはようございます、左京さん」

 坂本先生が妙に嬉しそうに立ち上がって近づいて来た。斉藤さんは芹沢さんを見て、立ち上がり、

「翔君、ホントに来てくれたんだ。嬉しい!」

 俺と話をしようとしていた坂本先生を押しのけて、芹沢さんに抱きついた。その拍子に坂本先生が俺に抱きついて来た。

「わわ!」

 俺は彼女の以前のイメージを払拭し切れていないので、慌てて彼女を押し戻した。坂本先生は顔を真っ赤にして、

「ごめんなさい、左京さん」

 ぺこりと頭を下げた。それを見て、

(本当にこの子、俺の事が好きなのか?)

 ありさや璃里さんの話を信じていなかったのだが、そう思わざるを得なくなった。出会った頃だったら、

「セクハラで訴えますよ!」

 唾を飛ばしてそう言ったような気がするからだ。あれ? そう言えば、いつの間にか、「左京さん」て呼ばれているぞ。


 ひとしきり、それぞれの自己紹介が終わり、俺達はソファに座った。璃里さんがここへ来る途中で訊いてくれたのは、犯人の心当たり、今までにどこで狙われたのか、そして、いつから始まったのか、だった。

「犯人には心当たりはないそうです。銃を扱える知人はいないので」

 璃里さんはチラッと芹沢さんとの話に夢中になっている斉藤さんを見て言った。坂本弁護士も呆れているようだが、依頼人をたしなめる訳にもいかないので、放置しておく事にし、璃里さんに報告を続けてもらった。

「狙われた場所も、いろいろですね。家の近く、勤め先の近く、駅の近く。そして、今日のようにたまたま通りかかったところとか」

 璃里さんは犯行現場が斉藤さんの生活圏をまんべんなく押さえているのに気づき、顔見知りの可能性が高いと考えているようだ。さすが、元警察庁のキャリアだ。

「狙われるようになったのは、一か月くらい前からだそうです」

 璃里さんの言葉を引き取り、俺はまだ芹沢さんとの話に夢中の斉藤さんを見た。

「斉藤さん、お話し中申し訳ないのですが、ちょっとよろしいですか?」

 斉藤さんは俺の声にハッとし、喋るのをやめて顔を向けた。芹沢さんはすみませんという顔で俺を見た。

「はい、何でしょうか?」

 斉藤さんはニコッとして言った。この子は事の重大さをわかっていないのだろうか? 命を狙われてるんだぞ。全く緊迫感がない。俺は溜息を吐きそうになるのを堪え、

「狙われるようになる直前、何かありませんでしたか?」

 理由もなく狙われる事はない。警察関係者や、政財界の大物ならいざ知らず、二十代の女性が問答無用で狙撃される事は考えられない。

「そうですねえ……」

 斉藤さんは腕組みをして考え込んだ。しばらく沈黙が続いた。俺と璃里さんは固唾を呑んで彼女の返答を待った。

「特に何もなかったと思うんですけど」

 テヘッと笑って言う斉藤さん。どこかで見た事があると思ったら、仕草がありさに似ているのだ。俺はイラッとしそうになるのをグッと押さえ込んだ。

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