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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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思わぬ「結末」

 俺はありさにある作戦を説明した。

「それ、リスク大き過ぎない、左京?」

 ありさが真面目な顔で異を唱える。だが、何の証拠もない俺達にできる事と言ったら、捨て身の特攻くらいだ。ボロを出させる奇策を講じるしかないのだ。そこまでする必要があるのか? 愛する妻樹里と愛娘の瑠里を思うもう一人の俺が問う。だが、それでも退けない。人として、そして元刑事として、更には人の親として、人の子として、決して許せない事をしようとしている人間に対して、見て見ぬフリをできるほど、俺も腐ってはいない。

「昔から悪運だけは強いんだよ。大丈夫さ、うまくいく」

 俺は根拠のない嘘を堂々と言ってのけた。ありさもそれに気づいていたようだが、それについては何も言わなかった。

「わかった。一度は身体を許したあんたのためにできる限りの事はするよ」

 ありさもとんでもない嘘を吐いた。

「ちょっと待て! お前とはそういう関係になった事はないぞ」

 いくら重大な役割を担ってもらう立場だとしても、今の嘘は聞き捨てならない。するとありさは悲しそうな顔をして、

「やっぱりね。あの時の事を全然覚えていないんだ」

「何だ、あの時の事って?」

 俺はとうとう坂本さかもと龍子りょうこ先生と土方ひじかた歳子さいこさんの訝しそうな視線に堪え切れなくなり、ありさを伴って廊下に出た。

「酔っ払ったあんたが、嫌がる私を無理矢理ベッドに押し倒して……」

 ありさの十八番おはこの妄想劇場が開幕した。怒るより先に呆れてしまった。

「それは冗談だけど、左京の事を心配しているのはホントだよ」

 ありさの目が潤んでいた。こいつとは長い付き合いだが、本当に泣きそうになっているのを見るのは初めてかも知れない。嘘泣きは嫌という程見て来たが。

「わかったよ。ありがとう、ありさ。でも、俺にも意地がある。そして、人間として決して許せない事もあるんだ」

 俺はありさの肩を掴んで説得を試みた。すると何故かありさは目を閉じて唇を突き出した。何を考えているんだ、このバカ女は? ほんの一瞬でもホロッとしてしまった自分が情けない。

「ふざけているのなら、作戦は中止だぞ、ありさ」

 俺はありさから離れて告げた。するとありさは、

「そうしなさいよ、左京。後は蘭達に任せるしかないのよ」

 今度はどういう事なのか、俺の襟首を掴んで廊下の壁に押しつけた。

「ありさ……」

 ふざけているような態度は、ありさなりの強がりだったと気づいた。とうとうありさの大きな瞳から涙がこぼれたのだ。

「わかった。俺一人でやる。さっきの作戦は聞かなかった事にしてくれ。俺が予定の時刻になっても戻らなかったら、蘭に連絡して、全てを任せて構わない」

 俺はゆっくりとありさの手を振り解き、その震えている身体を押し戻した。これが好き合った者同士なら見せ場だろうが、付き合った事すらない只の腐れ縁同士では見苦しいだけだ。

「嘘よ。私も協力するわ」

 ありさは涙を拭った。俺は苦笑いして、

「残業手当も危険手当も出ないが、いいのか?」

 するとありさは微笑んで、

「私だって、刑事だったのよ、左京。許せない奴は放っておけないわ」

 それはまさに不意打ちだった。いきなりありさがキスして来たのだ。しかも、唇に。

「あんたとは付き合い長いけど、キスしたのって初めてだね」

 女子高生みたいに頬を朱に染めたありさが言った。俺はこんな「人妻」に唇を許してしまった自分を責めた。

「そ、そうだな……」

 ありさにキスをされた衝撃で、俺は作戦の全容を忘れかけた。何て事するんだ、全く。

「でも、敵はこちらの挑発に乗ってくれるかしら?」

 既に冷静なありさが言う。口にまだありさの柔らかい唇の感触が残っているのを感じてしまいながら、

「乗って来るさ。証拠がないと思っているからな。そこはハッタリで押して、俺達が何か掴んでいると思わせる」

 ありさは肩を竦めて、

「行き当たりばったりな作戦ね、所長」

「まあな」

 俺は肩を竦め返した。そして、心の中で樹里に土下座して詫びた。ありさの夫の加藤には詫びる気にもならなかったが。


 坂本先生と土方さんには、部屋から出ないように忠告して、俺とありさはマスターが待つ純喫茶JINに向かった。先生は何故部屋から出てはいけないのか尋ねたそうだったが、俺とありさの真剣な表情を見て口を噤んだ。店に到着すると、俺は早速マスターに作戦内容を話し、意見を聞いた。マスターもありさ同様、あまり乗り気ではなかったが、何故俺がそうするのか、何故そこまでするのかを説明すると、納得してくれた。

「わかったよ、杉下さん。確かに許されざる者なのはな。私もできる限り協力しよう」

 マスターはカップに落としたてのコーヒーを注ぎながら言った。

「でも、情報屋は音信不通なんでしょ?」

 ありさがカップを受け取りながら言った。マスターはニヤリとして、

「情報屋はあくまで私が育てたんだよ、ありさちゃん。駒が動きを封じられたら、自分で動く。それが私のやり方だ」

 ありさは目を見開いて俺を見た。俺はマスターを見て、

「マスターにとっても許されざる者だという事だな?」

「ああ、そういう事だ。それに情報屋を封じられた礼もしたいしな」

 何故か嬉しそうな顔をする。俺は苦笑いして、

「ノリノリだな、マスター。昔の血が騒ぐのかな?」

「そんなところだな。久しぶりに血湧き肉踊るだよ、杉下さん」

 マスターはフッと笑い、親指を立ててみせた。俺も同じポーズで応じた。


 作戦会議を終えたのはすっかり宵闇に包まれた二時間後だった。マスターの得意のカレーをご馳走になり、俺とありさは事務所に戻った。明日には決着をつける。そう思っていた。だが、そんな俺の甘い幻想は打ち砕かれる事になる。


 本当は久しぶりに樹里の待つアパートに帰るつもりだったのだが、先生の部屋に報告に行って、何故か飲み会になってしまい、酔っ払った先生が絡み酒になって、

「ずっと貴方が好きだったのにィ!」

 泣きながらそんな事を言われてしまった。帰るに帰れなくなった俺達は、夜明け近くまで先生に付き合う事になった。そして、射し込んでいる朝日に目を細めながら、テレビのリモコンを何気なく操作した。すると信じられない情報が流れて来た。

「先日、東京地検と国税局の家宅捜索を受けた鷲鷹わしたか建設の事実上のトップである鷲鷹重蔵氏は当局に任意の取り調べの要請を受けましたが、今朝未明、社内で首を吊って死亡していた事がわかりました」

 俺は一瞬で眠気が吹き飛んだ。

「一体どうなっているのよ、左京!?」

 化粧が落ちた顔でありさが怒鳴った。先生はまだ潰れており、土方さんはソファで寝息を立てている。

「やられた。まさかそこまでするとは思っていなかった……」

 俺は敵の予想を遥かに超えた行動に戦慄していた。そして、昨日時間をかけて練った作戦を白紙に戻さざるを得ないと思った。その時、携帯が震えているのに気づいた。蘭からだった。

「どうした、蘭?」

 ごく冷静に通話を開始した。

「鷲鷹重蔵氏が死亡したのは知っているわよね?」

 蘭の声はあくまで事務的だ。俺はリモコンをテーブルに戻して、

「ああ。今、テレビの速報で見たよ」

 電話の向こうで蘭の溜息が聞こえたような気がした。

「それなら話は早いわ。鷲鷹重蔵氏と接触したわね、左京? 事情聴取をするから、本庁まで出向いてくれないかしら?」

 蘭の声が異常に遠くから聞こえた錯覚に陥った俺は、底知れない恐怖を感じた。

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