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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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鷲鷹重蔵

 しばらく呆気に取られていた俺は、勧められるままにリムジンに乗り込み、奥に詰めた鷲鷹わしたか重蔵じゅうぞうの隣に座った。

「驚かれるのも無理はないでしょうが、私にも独自の情報網がありましてね」

 テカテカに塗り固められたようなオールバックで、その上眼光が鋭く、眉間には幾重にも縦皺が寄っている強面でありながら、どこまでもその言葉遣いは丁寧だ。逆にそれがよりいっそう彼の怖さを引き立てているとも言えなくもないが。

「はあ」

 それだけ返すのがやっとなくらい、俺は緊張していた。何しろ、今回の一連の騒動の相手の、しかもトップが登場して今同じ車に乗っているのだ。冷静になろうとすればするほど、いろいろな憶測が頭の中にわさわさと湧き出て来て、自律神経が変調を来たしたのではないかというくらい尋常ではない発汗状態だ。

「少しお時間いいですか?」

 重蔵氏は微笑んだのかも知れないが、俺には凄んだようにしか見えない。

「はい」

 口の中の水分がこぞって蒸発してしまい、舌が歯の裏に張り付きそうになった。重蔵氏は運転士をルームミラー越しに見て微かに頷いた。運転士はそれに会釈で返し、リムジンの右のウインカーを点滅させて、走り出した。全くエンジンの音が聞こえて来ない。俺のボロ車とは造りが違うのだろう。

「貴方はどこまでご存知なのですか?」

 重蔵氏はフロントガラスの向こうに流れる風景を見ているのか、只漫然と視線を向けているだけなのかわからない表情で口を開いた。俺も窓の外を見ようと思ったが、スモークが濃くてよく見えないので、重蔵氏に倣って前を向き、

「どこまでとはどういう意味ですか?」

 ちょっと惚けてみた。これで本性が出ればしめたものだ。口の中は相変わらず湿度が低いので、舌を噛みそうになった。

「慎重ですね。さすが、元警視庁の警部さんです」

 重蔵氏は怒り出すどころか、ニヤリとして俺を見た。さすが、大企業のトップだ。ちょっと揺さぶりをかけてみたつもりが、空振りだった。しかも、俺の素性まで調べ上げている。こいつは迂闊だったかも知れない。このまま山奥に連れて行かれて、誰も来ないような山小屋に監禁され、餓死させられるのか、などと妄想してしまう。

「狛犬興業の社長の厳三は私の小中の同級生でしてね。多分、すぐに釈放されるでしょう」

 重蔵氏は何故か手の内を明かすような事を言った。どういうつもりだろう?

「上層部に圧力をかけるという事ですか?」

 今度こそ怒り出すのではないかと想像して、笑みを浮かべて尋ねた。

「貴方が知る必要はない事です、杉下左京さん。命が惜しいのであれば、もうこの件には関わらない方がいい」

 重蔵氏の顔が険しくなった。正直、ビビッてしまった。元刑事だから、そこそこ怖い顔は一般市民よりは見て来たつもりだったが、重蔵氏の迫力はヤクザのそれとは違い、上っ面だけの怖さではなかった。邪魔者は徹底して排除し、伸し上がってきたからこそ持てる凄みを感じた。

「止めろ」

 重蔵氏は運転士に指示した。リムジンは路肩に寄り、ハザードを点滅させながらフワッと停車した。

「貴方は思い違いをしているようですね」

 重蔵氏は険しさを和らげて言った。

「思い違い?」

 何の事かわからず、鸚鵡返しに尋ねてしまった。するといつの間にか回り込んでいた運転士がドアを開いた。降りろという事だ。

「私は忠告しましたよ、杉下さん。それをお忘れなきよう」

 リムジンを降りかけた俺の背中に重蔵氏が言い添えた。俺は外に出てから振り返り、

「覚えておきますよ」

 その言葉を言い終わらないうちに運転士はドアを閉じ、会釈をして運転席に戻って行った。

(警告に来ただけなのか? それとも……)

 走り去るリムジンを見ながら、俺は重蔵氏の真意を測りかねてしまった。はっと我に返り、改めて戦慄した。そこは俺が愛車を駐めた駐車場の前だったのだ。一体どこから俺を監視していたのだろうか?


 どこをどうやって帰ったのかわからないほど俺は考えに没頭していた。よく事故を起こさなかったと思った。

「どうしたの、左京? 幽霊にでも会ったような顔をしてるわよ」

 純喫茶JINの扉を開けて出迎えてくれたありさがいつになく真面目な顔で告げた。俺は苦笑いして、

「お前の幽体離脱を見たからかな?」

 強がりのジョークを飛ばしたが、

「ふざけないでよ、ひとが真剣に心配してるのに!」

 ムッとされてしまった。店内に歩を進めると、営業中にも関わらず、客はいない。これは俺の推測だが、ここの普段客として姿を見せている連中は、全員マスターの情報屋なのではないだろうか?

「杉下さん、ありさちゃんの言う通りだよ。どうした、顔色が悪いぞ?」

 マスターまで俺の身体の心配をしてくれたところを見ると、相当顔に出てしまっているようだ。俺はカウンターの椅子に腰を下ろすと、事情を説明した。

「重蔵が接触してきたのか?」

 マスターは目を見開いた。ありさも思わず唾を呑み込んだようだ。

「単なる警告なのか、それ以上の意味があるのか、ずっと考えていたんだが、どうにも結論が出せなかったよ」

 俺は淹れたてのコーヒーの香りを楽しむ余裕もなく飲み干した。とにかく水分補給がしたかったのだ。冷静に考えれば、利尿効果が大きいコーヒーを飲んでも水分補給にはならないのだが。

「警告だけなら、誰かを使えばすむ事だろう。直々に出て来たという事は、余程の事だと思うよ」

 マスターは新しくコーヒーを落としながら言った。

「場合によっては左京を始末しようと思ったのかしら?」

 ありさが真顔でそんな事を言うと他の誰が言ったのよりゾクッとする。

「始末するつもりなら、自分では動かない。焦っているのかも知れないな」

 マスターは顎に手を当てた。俺はカップをソーサーに戻し、

「重蔵氏は、普段から物腰は柔らかなのか?」

 マスターは空になったカップにコーヒーを注いで、

「自分の人相をよく知っているから、若い頃から物腰は柔らかだったよ。とにかく似ていない親子だよ。父親の兵庫ひょうごは好々爺という言葉が当てはまるような温厚そのものの風貌だからな」

「じゃあ、母親が怖い顔だったのかしら?」

 ありさが場を和ませようと思ったのか、そんな事を言った。するとマスターは、

「いや、兵庫には勿体ないくらいの美人だったよ。確か映画女優だったはずだ」

 それは俺にも意外な答えだった。一代で財を成した人物だから、奥さんは一般人だと思っていたのだ。

「もしかして、重蔵さんて、実の子じゃなかったりして……」

 ありさのトンデモ発言だったが、マスターは真顔で、

「それは兵庫自身が口にした事があるよ」

「ええ!?」

 俺はありさと見事にハモって叫んでしまった。

「相手は有名な女優だったから、浮名も流したらしいし、そんな事もあるかも知れないと言っていた」

 マスターはカウンターを布巾で掃除しながら言った。

「そんな疑惑を抱いていたせいなのか、夫婦仲は冷え切って、奥さんは何年か後に病気で亡くなった。兵庫はそれを切っ掛けに反省し、重蔵を大事にすると奥さんの仏前で誓ったそうだ」

 マスターの言葉に俺は自分もそんな事を考えないようにしようと思った。いや、それ以前に妻の樹里に見捨てられない努力をするべきか。

「という事は、兵庫氏は奥さんに問い質したのか、重蔵氏の事を?」

 俺は気になったのでマスターに尋ねた。マスターは首を横に振って、

「そこまではわからんが、夫婦仲が冷え切って、奥さんが病気になるほどなのだから、問い詰めたのだろうな。でなければ、そこまで事態は悪化しないだろうし」

「そうだな」

 実の子ではないと兵庫氏が考えたのであれば、それは重蔵氏にも伝わっただろう。少なくとも、母親が何故死んだのかは考えたはずだ。親子の確執はその辺りから始まっているのか?

「どうした、蘭?」

 携帯をバイブレーターにしてあったのを忘れていて、元同僚の平井蘭から何度も着信があったのに気づいた時は、最初の着信から十五分ほど経っていた。そのせいで、蘭は酷く不機嫌な声で出た。

「無視してたの、左京? そんなに弁護士先生と一緒だと楽しいのかしら?」

 いくら元カノとは言え、今はお互いに配偶者がいるのだから、そんな言い方はあり得ない。でも、口論で勝とうと思うほど俺も浅はかではない。

「すまん、バイブになっていてわからなかったんだ、なあ、マスター」

 マスターを巻き込んで蘭の嫌味を封じた。蘭も俺がJINにいるのがわかったので、それ以上俺をネチネチといたぶるつもりはないようだ。マスターは苦笑いした。

「狛犬厳三達は証拠不十分で釈放されたわ。上から圧力がかかったみたいよ」

 蘭の声は失望を超えて怒気を含んでいるのがわかった。俺は重蔵氏との一件を話すか話すまいか考えたが、

「実はな……」

 保険のつもりで話した。蘭は黙って聞いていたが、

「私の言ったとおりでしょ、左京? もう手を引いて」

 思った通りの言葉が聞こえてくると、何だかこそばゆくなるものだ。

「いや、手は引かないよ。乗りかかった船がもうすぐ対岸に到着するのに海に飛び込むほど俺もバカじゃないよ」

 マスターに目配せしながら言うと、

「十分バカよ、あんたは!」

 蘭はそう言って通話を切ってしまった。

「私、しーらないっと」

 ありさが肩を竦めて言ったので、俺も肩を竦め返した。一つの推測が頭に浮かんでいる。恐らくそれが正解だと思うが、何も証拠がない。そしてまだ、敵は活動を停止した訳でもない。

「兵庫氏は重蔵氏を見限っていたのか?」

 俺は確認のため、マスターに尋ねた。マスターは手を休めて俺を見ると、

「見限るまでいっていたかは定かではないが、信頼関係はなかったようだ」

「だとすれば、答えはもう一つしかないと思う」

 俺は理由を訊きたいオーラを全開にしているありさを無視して続けた。

「重蔵氏の復讐が始まったんじゃないのか?」

「子獅子が親獅子を潰すつもりだというのか?」

 俺はマスターを見て首を横に振る。

「いや、会社そのものを潰すつもりだと思う。狛犬興業の一件はまだ入口で、その先にあるのは国交省を巻き込んだ談合疑惑だ。それが明るみに出れば、鷲鷹建設も只ではすまないだろう?」

 マスターが眉間に皺を寄せた。

「左京に会ったのはどうして?」

 ありさが我慢し切れなくなって言った。俺はありさを見て、

「俺がどんな人間なのか見るつもりだったんじゃないかな。で、どこまで話すか決める腹だった」

 そうは言いながらも、心のどこかに引っかかるものがあった。重蔵氏が言った言葉。それがどれだったのかはよくわからないのだが、何か不自然な言い回しがあったのは覚えていた。

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