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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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接触

 純喫茶JINを出た俺は携帯を取り出し、愛する妻の樹里に電話した。

「はい」

 嬉しそうな樹里の声が受話口から聞こえて来る。もちろん、「嬉しそう」というのは俺の主観に過ぎず、樹里がどう思って出ているのかはわからない。

「樹里、すまないな、まだ帰れそうにない。悪いんだけど、事務所の掃除をしてくれないか?」

 俺は断られても仕方のない我が儘な事を頼んだ。

「いいですよ。明日はお仕事がお休みですから、瑠里と二人で行きます」

 だが、素直が具現化したような樹里にはそんな選択肢はないようだ。もう少しで泣きそうになった。

「ありがとう、樹里」

「私達は夫婦なんですよ、左京さん。お礼なんて言われると、他人みたいです」

 樹里の声が少しだけ怒っているように聞こえた。それももちろん俺の主観に過ぎない。

「そうだな。すまない」

 俺は愛娘の瑠里の声を聞き、英気を養って通話を終えた。樹里には何があったのか説明しなかったが、事務所が散らかっている事は伝えた。俺がだらしない人間に思われるのは悲しいが、樹里を心配させるような事は言えない。だらしないと思われてすむのなら、その方がいい。俺は自分を納得させて、事務所があるビルの地下に向かう。また一瞬、辺りを警戒したが、疲れるだけだと考えるのをやめた。


 何事もなく車を大通りに乗り出した俺は、一路国土交通省がある千代田区を目指した。昔馴染みがいるのは、国土交通省の広報だ。同じ小学校と中学校に通い、高校は別になったが、ずっと交流を続けている。とは言え、顔を合わせるのは年に数回だから、忙しいあいつは俺を忘れているかも知れない。いや、人の顔をすぐに忘れてしまう俺にそんな事を言われたくはないか。


 まさか省内の駐車場には止められないだろうと思い、前の職場でよく利用していた私営の駐車場に車を置き、見覚えのある建物けいしちょうを横目で見ながら舗道を歩く。警備の警官が俺を見て敬礼してくれた。どうやら知っている奴らしいのだが、俺には全く誰だかわからない。だが、愛想笑いをして、敬礼を返した。

(だから来たくなかったんだけどな)

 苦笑いをし、目の前に迫って来る国交省のビルを見上げた。ちょっと自信を喪失しそうだ。ここまで来て怖気づいた訳でもないが、忘れられていたらどうしようなどと思ってしまった。

「何でしょうか?」

 最近のサイバーテロや良からぬ事を企む連中のせいで、いきなり不審者扱いにするのはどうかと思うが、まあ、簡単に侵入されてしまうよりはいいのだろうと自分を納得させ、俺の顔を知らない警備の警官を見た。

「広報の伊藤いとうまもるさんに会いたいのですが?」

 具体的な名を上げると、更に警官の目が鋭くなる。

「貴方の身分を証明するものはありますか?」

 順当な質問だ。俺はウィンドブレーカーのポケットから運転免許証を出してみせた。

「杉下左京さんですか。お待ちください」

 氏名を確認しても、その警官は全く表情を変えずに無線を取り出した。年代的に俺と変わらないように見えたので、名前を知れば話が通り易くなると思ったが、駄目みたいだ。少しだけ落ち込んでしまった。

「ロビーでお待ちくださいとの事です」

 相変わらず無表情無感情でその警官は言った。

「ありがとう」

 俺は複雑な感情を押さえ込んで微笑み、正面玄関へと歩を進めた。


 セキュリティは以前入った時より強化されているようだった。防犯カメラの数も増えている。そんな緊張感のあるロビーに足を踏み入れ、俺は右手にあるソファに近づく。ロビーにも警備の警官がおり、ジッとこちらを見ている。少しでも不審な動きをすれば、即座に取り押さえるつもりなのがよくわかった。俺はつい愛想笑いをして会釈し、ソファにゆっくりと座った。辺りを見渡すと、防犯カメラにあちこちから狙われている事に改めて気がつく。あまりキョロキョロしていると、更に怪しまれるので、視線を落とし、伊藤が来るのを待った。

 伊藤とは、静と動というくらい性格も成績も違っていたが、家が近くて、他に親しい友人もいなかったせいか、妙に馬が合った。今でも伊藤以上に気の合う友人はいない。それは単に俺に友人が少ないという事だけなのかも知れないが、友人でなくても、元の同僚や、高校や大学の同級生にも、伊藤のように気兼ねなく話ができる人間には出会わなかった。伊藤はどちらかと言うと、寡黙な方で、話をしても聞き手に徹していて、それでいて会話は滞ることなくスムーズに進んだ。まさに「聞き上手」だったのだ。

「久しぶりだね、左京君」

 そんな昔の事を回想していると、伊藤が声をかけて来た。子供の頃から、ボソボソッと話す口調は変わっていない。ロビーが静かだったから聞こえたのだ。俺はハッとして顔を上げた。するとそこには、頬のこけた長身できっちりとした七三分けのグレーのスーツを着込んだ男がいた。風貌はほとんど変わっていない。この前会ったのは、俺が警視庁をやめた時だったろうか?

「おう、久しぶり。悪いな、忙しいんだろ?」

 俺は差し出された手をしっかり握りしめて尋ねた。伊藤は微かに笑みを浮かべて向かいに座り、

「そうでもないさ。僕は閑職だからね。毎日何をして時間を潰そうかと考えているんだよ」

 冗談とも事実ともつかない事を言い出す。昔から面白い事を言わない男だったが、今のが冗談だとしても、全然笑えない。

「そうなのか? じゃあ、時間大丈夫か?」

 俺は苦笑いして尋ね返した。すると伊藤は頭を掻いて、

「今のは冗談のつもりだったんだけどな」

 俺は唖然とした。伊藤が暇かどうかは別にして、俺は急いでいるので、搔い摘んで事情を説明した。もちろん、警備の警官には聞こえないように声を低くし、顔を近づけてだ。伊藤は目を丸くして驚いていた。

「土方さんが君のクライアントなのか。それはびっくりしたよ」

 だが、その口調は然程驚いているようには聞こえない。

「警察の人が昨日来たのは、その事件の事だったんだね。設楽君が逮捕されたので、芝塚課長が酷く狼狽えていたと聞いたよ。その芝塚課長が自殺ではなくて、他殺の可能性があるのか、左京君?」

 俺の事を「左京君」と呼ぶのは、小学校三年の時に担任だった白鳥しらとり美玲みれい先生と伊藤だけだ。だから、そう呼ばれると、初恋の人だった白鳥先生を思い出す。もうお孫さんもいるらしいが。

「今話したように、あまりにもでき過ぎているからな。ところで、鷲鷹建設に太いパイプを持っている人物に心当たりはないか?」

 俺は警官がこちらに注目していないのを確認してから訊いた。伊藤は腕組みをして、

「そうだね。僕はそういう事情はよく知らないんだけど、道路局の人間で、入札に関わりのある役職の人は、ほとんどが繋がりがあるよ。鷲鷹建設は新興のゼネコンだけど、ここのところ、急速に業界の上位に昇って来ているからね。皆、天下りを考えているのだろうね」

 鷲鷹建設は想像以上に国交省に食い込んでいるという事か。これは骨が折れそうだ。

「じゃあ、交通局に石を投げれば、鷲鷹建設と親交のある奴に当たるって事か?」

「そんなところだね」

 伊藤は微笑んで応じた。そして、

「それよりどうして、左京君は警備の警察官をそんなに気にしているの? 聞かれたらまずい話なのかい?」

 俺はもう一度警官の視線がこちらに向いていないのを確認してから、

「鷲鷹建設に入っている警備会社の役員は警視庁のOBが大半を占めているらしい。どこから漏れるか、わからないんだよ」

「なるほど」

 伊藤は腕組みを解き、ポンと膝を叩いた。そのリアクションに何か不自然な思いがしたので、

「何あったのか?」

 尋ねてみた。伊藤は顔を近づけて、

「実は、極秘の話をしたのが、何故か鷲鷹建設に筒抜けだったらしいんだ。そういう事だったんだね」

「そうなのか?」

 今度は俺の方が目を見開いた。ますますヤバい状況かも知れない。ここは敵地なのだ。あまり長居はしない方が得策だろうし、伊藤に迷惑をかけたくない。

「また何か聞きたい事があったら、連絡する。その時は力になってくれるか?」

 立ち上がりながら訊いた。伊藤も立ち上がって、

「もちろんさ。僕達は親友だろう?」

「ああ、そうだな」

 俺はもう一度握手を交わし、ロビーを出る。伊藤が見送ろうとしたが、丁重に断った。奴を危険にさらしたくない。

(国交省から何か辿れると思ったが、無理だな)

 空振りに終わったと思った俺は、次はどうしようかと考えながら舗道を歩いた。その時、車道を走っていた黒塗りのリムジンがスウッと停止した。

「杉下左京さんですね?」

 後部座席のスモーク入りのウィンドーが開き、強面こわもての顔が覗いた。誰だ?

「鷲鷹建設の鷲鷹重蔵です。車にお乗りいただけますか?」

 その正体を知り、俺は仰天した。鷲鷹建設のトップが自らお出ましになったのだ。

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