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私立探偵 杉下左京  作者: 神村 律子
日本の闇の主
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忘れていた過去

 坂本さかもと龍子りょうこ弁護士が、感情を剥き出しにしている。いつも剥き出しではあったが、それは常に決まって怒の感情だった。でも今は違う。哀だ。楕円形の黒縁眼鏡を外して、零れ落ちる涙を拭っている。

「あ、えっと……」

 先生に軽口を叩いたありさが慌てている。俺も女の涙にはどうしようもなく弱いが、同性であるありさもオロオロしてしまうほど、弁護士先生は大泣きをしていた。依頼人である土方ひじかた歳子さいこさんも今にも泣き出しそうな顔で先生を気遣っている。

「杉下さんと初めて会った時の事を覚えていますか?」

 先生は嗚咽を抑えながら言った。俺はビクッとしてしまったが、

「ああ、覚えてますよ。ゴミの日を間違えて、鼻先にゴミ袋を突きつけられた日ですよね?」

 俺は何とか記憶の糸を辿って答えた。

「やっぱり、全然覚えていないんですね……」

 涙で赤くなった目を吊り上げて俺を睨むその顔は、怒っているというより、悲しみに満ちているように見えた。

「申し訳ありません、先生。杉下は人の顔を忘れる天才と警視庁時代から言われていたんですよ」

 弁護士先生が泣き出したのが自分のせいではないとわかったありさがいきなり俺を悪者扱いし始めた。相変わらず変わり身の早い奴だ。それにしても妙だ。いくら忘れっぽい俺でも、あれだけ強烈に抗議して来た彼女との出会いを思い違いしているはずがない。

「杉下さんとは、私が大学一年の時に会っているんです」

 坂本弁護士は土方さんに差し出されたポケットティッシュで涙を拭いながら言った。

「ええ?」

 衝撃的な話だった。彼女が大学一年という事は、今から六年前。そんな前の事を覚えていないのかと言われても、無理な相談だ。その頃俺はまだ閑職である「特捜班」に追いやられる前で、捜査一課でバリバリ働いていたんだよ。今以上に人の顔は覚えるどころではなかったはずだ。

「そうだったのか。いや、申し訳ない。全然覚えていなかった」

 俺は素直に謝った。例えそれが無理な話だとしても、涙を流している女性に対して、

「そんなの覚えているはずねえだろ!」

 そう言えるほど俺は冷たい人間ではない。それから、彼女の年齢を知っているのは、以前に一度、

「学生さん?」

 失礼な事を言ってしまったので、

「違います! 弁護士です! それにもう二十五歳です!」

 ほっぺたを膨らませてスーツの襟のバッジを示してから、ゴミ袋の時と同様に鼻先に運転免許証を突きつけてきたからだ。俺と一回り違うのか、樹里のお姉さんの璃里さんと同い年にしては子供っぽいな、と思ったのでよく覚えている。ああ、決して、璃里さんと年が一緒だから覚えているのではない。

「いえ、いいんです。私が勝手に印象が強かったから覚えていてくれるって思っただけなので……」

 先生は弱々しい笑みを浮かべ、自嘲気味だ。何だか胸を締めつけられそうな気がしてきた。

「杉下さんに久しぶりに会った時、私は天の巡り合わせだって思ったんです。ずっともう一度会いたいって祈っていましたから」

 そう言いながら、どんどん顔を赤くし、俯いていく。俺にもう一度会いたいって、ずっと思っていた? それってまさか……。

「ああ! 思い出した! この人、あの人質事件の最初の人質の一人よ!」

 ありさが大きな声で叫んだ。近所迷惑ではないかと思ったが、もう誰もいないから心配ないし、この階は坂本先生しか借りていないから大丈夫だ。ありさがそこまで思い出してくれたので、俺ももつれていた記憶の糸を解きほぐす事ができた。あの人質事件とは、ありさが瀕死の重傷を負い、俺が特捜班への移動を命じられた事件の事だ。現場となった西多摩署には何人かの一般人も居合わせた。多くの人は外に逃げられたのだが、落とし物を受け取りに来ていた女子大生は逃げ遅れて人質になってしまったのだ。その後、俺が犯人をひきつけている間にその娘は無事脱出した。

「怖かったあ!」

 その娘に抱きつかれて泣かれた事、あの時はショートカットで、もう少しボーイッシュな顔立ちをしていた事も思い出した。眼鏡ももっと大きくてダサかったと思う。

「あの後で警視庁にお礼に伺った時、杉下さんに子供扱いされました。それも覚えていないんですよね?」

 坂本先生は恨めしそうな顔で俺を見た。ありさと土方さんまでが睨んでいる。

「でも、杉下さんが奥に行ってしまった後で、さっきいらしていた女性の刑事さんに聞きました。杉下さんは命令違反をして同僚を負傷させたために閑職に異動になったと。それを聞いて、何も知らずに会いに行った私に事情を全然言わないで、軽口を叩いていた杉下さんに落とされてしまったんです」

 先生はまた俯いてしまった。ええ? 落とされたって、自白したって事じゃないよね? どういう事? しかも、よくよく聞いてみれば、この先生は俺だけではなく、ありさにも蘭に会っているのか。俺の事を「顔を忘れる名人」とかもう言わせねえぞ、二人共!

「ええっと?」

 俺は意味がわからなかったので、坂本先生の顔を覗き込んだ。すると先生は、

「ホント、鈍感なんですね、杉下さんて!」

 またムッとした顔で俺を見た。距離が近過ぎて、俺の方がドキッとしてしまう。それくらいあの時とは違って、彼女は大人の女性になっているのを知った。

「それから私は在学中に司法試験に合格して、通学しながら弁護士事務所でアルバイトしました。大人になった私を貴方に見て欲しくて、必死でした」

 そこまで言われて、彼女の思いにようやく気づいた俺はどうしようもないバカだ。

「いや、あの……」

 俺はどんな言葉を返せばいいのかわからず、口籠もってしまった。すると坂本先生は、

「もちろん、杉下さんには奥様がいて、お嬢さんがいるのはわかっています。だから、余計その……」

 告白する前に失恋したっていうケースか。俺も覚えがある。だから尚の事、そいつに当たってしまったのも思い出した。

「ごめんなさい! 私の一方的な思いで貴方を無理矢理巻き込んでしまって!」

 坂本先生は長い髪を振り乱して深々と頭を下げた。清々しいくらい真っ直ぐなひとだな。樹里と結婚していなければ、逆告白してそうだ。

「顔を上げてください、先生。謝る必要なんかない。悪いのは俺だ。貴女の事をすっかり忘れていたんだから」

 そう言いつつ、俺は同罪のありさを見た。するとありさは顔を背けやがった。後できっちり話をしようと思う。

「ありがとうございます、杉下さん」

 眼鏡の端から溢れる涙を拭いながら、坂本弁護士は顔を上げた。俺は苦笑いして、

「取り敢えず、今日はもう休んでください。明日になれば、JINのマスターが何か情報を提供してくれますよ」

「はい」

 俺はありさの肩を叩き、坂本先生と土方さんを部屋に送らせた。

「お前はそのまま一緒にいてくれ、ありさ。俺は事務所で寝る」

 そう言って立ち去ろうとすると、ありさに襟首を掴まれた。危うく嘔吐しそうになった。

「あんたって、とことん女心がわからない人ね。もう少し一緒にいてあげなさいよ、先生と」

 ありさはふざけている風もなく、そう言った。

「ええ?」

 結局、俺はありさと共に先生の部屋に行き、ありさは二人と一緒に部屋で寝る事になり、俺はリヴィングのソファで休む事になった。そして、しばらくそこで雑談を交わした。時々ありさがふざけて俺の黒歴史を発表し、土方さんを凍りつかせたが、坂本先生は微笑んでいた。ありさめ、後で仕返ししてやるからな。

「シャワーをお使いください」

 ゴミ出しの日に会った時とは全然違う恥ずかしそうな笑顔でそう言われ、照れ臭くなった。

「俺は最後でいいです。お先にどうぞ」

 遠慮ではなくそう言ったつもりだったが、

「いえ、後から杉下さんに使われる方が恥ずかしいですから、お先にどうぞ」

 そんな風に返されるとは思わなかったので、こっちの方が恥ずかしくなった。使った後は奇麗にして出ようと思った。


 いろいろあったせいか、ソファに横になった途端、俺は眠りに落ちた。翌朝の事など想像もつかなかったので。

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