彼と俺
マイちゃんは持っていたバケツに海水を汲みながら少し言いにくそうに言った。
「ねぇ…。一緒に…私の家に帰ろう?」
そしてまだ返事もしていない俺をそっと両手で海水ごと掬い上げ、バケツに入れた。
返事をしたとしてもマイちゃんに通じるわけはないのだが、俺はバケツの中で「ありがとう」と呟いた。
どういう訳か俺は人間の言葉が理解できる。
しかし残念ながら人間には俺の言葉が理解できない…と言うよりも、俺の声は人間に聞こえていないようだ。
そんなこんなで会話こそ成り立っていないが、俺に不満は無かった。
それどころか嬉しかった。
マイちゃんの運転する車で一緒に家に向かう途中、俺の事を『康弘』と呼んだ理由を聞かせてくれた。
「少し前に…彼氏だった人がこの世を去ってさ。
原因はね、別れ話の延長の…自殺だったんだ」
そう語り始めたマイちゃんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「些細な事でケンカになって…私、意地張って自分が悪かった事も認めずに『じゃあもう別れようよ』って言ったら、彼は『わかった』って言って帰っちゃって。
次の日テレビのニュースで知ったんだ。
私と別れて帰る途中に、車ごと海に飛び込んで自殺して死んじゃった事…。
彼はよく言ってた。『僕は一人じゃ生きて行けない。僕にはマイが必要だ』って。
『康弘は一人になんかならないよ。私がずっと一緒にいるから』って約束したのに私…
大好きだったのに
愛してたのに
つまらない意地を張って彼を絶望させてしまった。
孤独にしてしまった。
私がもっと素直になれたらこんな事に…」
いつの間にかマイちゃんは車をコンビニの駐車場に停め、ハンドルを握ったまま嗚咽混じりに泣きじゃくっていた。
そうか。
だから海で出会った時にマイちゃんは暗い顔をしていたのか。
でも何故、彼と俺がダブるんだろう?
考えたが答えはわからなかった。
そんな俺の納得しきれない顔を見て、少し落ち着いてきたマイちゃんは言った。
「彼が言ってたの。『僕はタツノオトシゴだ』って。
意味わかる?
竜の落とし子ってさ、泳ぐのが下手で…何かに掴まってないと海の流れに流されて生きて行けないんだって」
その言葉に俺は妙に納得した。
納得したというよりも正に自分そのものだと思った。
その『何かに掴まる』という行為が産まれた時から誰に教えてもらうでもなく当たり前過ぎて考えもしなかったが、いつも海藻に尻尾を巻き付けているから流されずに餌も獲れる。
もし掴む『何か』が無かったら…
生きて行くのは難しいかもしれない。
亡くなった彼は『マイちゃん』という存在に掴まっていたからこそ生きていたんだろう。
人間も大変なんだな…。
「よし、帰ろう、ヤス。
あなたの名前はヤス…。いいよね?
私の名前はマイ。よろしくね」
そう言ってマイちゃんは再び車を走らせ、家へ向かった。