キミのために永遠を
──写真。一瞬を切り取って永遠にすることができる一枚の紙。
今は思い出せないあの人の顔も、思い出になってしまった楽しい記憶も、一枚の写真さえあれば鮮明に思い起こすことができる。そんなものに僕は魅せられた。
きっかけは一枚の写真。少し遠出をしてテーマパークに行ったときに撮った、僕と、お父さんと、お母さんと三人で並んで映っているだけの、なんてことない普通の家族写真。幸せそうな表情の両親に挟まれた幼い僕の目は半開きで、間抜けな表情をしていた。ありふれているけど、ちょっと特別な、そんな一瞬を切り取った一枚の家族写真。
二年前、高校に入学する前に部屋の掃除をしていた時に見つけたその写真は、十年は経とうかという古い記憶を、幼すぎておぼろげにしか覚えていなかったその思い出を、まさに今その場にいるかのように蘇らせた。
意気揚々とジェットコースターに乗ったはいいものの、あまりの恐怖に泣きじゃくったこと、長い行列に並び疲れ、父親に負ぶってもらったこと。その写真を見るだけで幸せな一日が昨日のことのように思い出された。
過去の記憶は衝撃となって僕を貫き、衝動となって僕を駆り立てた。
貯めたお年玉をはたいて一眼カメラを買い、必死になって使い方を学び、最高の瞬間を最高の形で切り取るための訓練をした。
そうして、僕は高校に入って早々に写真同好会を立ち上げた。
なんでもない日常の中に特別を探すために、絶えずアンテナを張った。絶えず周囲を観察し続けた。どんな一瞬も取りこぼさないように。
だから気づいた。とある女生徒に。
彼女は写真を撮らない。クラスの女子たちが、思い思いにスマホを取り出して自らをより良く映すことに執心している様子を、彼女はただ眺めている。いじめに遭っているわけでもなさそうで、実際自分で写真を撮らないだけであって、カメラを向けられれば応じるし、自ら映り込みに行くこともある。
ただ、彼女が何かにレンズを向ける姿を一度も見たことはなかった。
***
「秋柳君、写真撮ってくれない?」
「え?」
だれもいない教室に差し込む放課後の陽光が、少しずつ赤みを増してゆくのを眺めながらカメラを構えていた僕にとって、その問いは不意打ちに他ならなかった。突然背後からかけられた、思ってもみなかった頼み事に、僕はただ素っ頓狂な声をあげることしかできなかった。
意識外からの強襲に跳ね上がった心臓を落ち着かせながら振り返る。そこにいたのは、西日を纏う、長い黒髪を携えた美少女、栗栖穂香に他ならなかった。
「栗栖さんの写真を……僕が?」
「そ、私の写真を秋柳君が」
赤みを帯びた春の西日とは裏腹に、夏の太陽のような、照り付ける快活さを感じさせる声で、笑顔で、彼女はそう言った。なんでもないことを言うように。というか、実際に彼女にとってはなんでもないことなのかもしれない。
「どうして?」
「え? 嬉しくない? こんな美少女を撮れるチャンスだよ?」
栗栖さんは、端正な顔を縁取る長い黒髪を、サラサラと手のひらの上で転がしながら、どこかのモデルを真似たであろうポージングを決める。
様になっていると思う。実際、彼女は学年でもトップクラスに容姿が整っている。それは誰の目から見ても間違いがない。それに、普段から誰に対しても分け隔てなくその笑顔をふりまいている。
それもあって、クラスの男子たちは密かに彼女の一挙手一投手を目で追い、それに心をざわつかせる羽目になっているのだ。端的に言えば人気がある。だが、これとそれとは別の問題なのだ。
「なんというか……違うんだよ。こう、『撮られるぞ』って身構えている人を撮るんじゃなくて、何気ない日常を撮るのがいいんだよ。そのために僕はカメラを構えているんだ」
「……強情だなぁ」
わざとらしさを感じるほど大きく肩を落とし、彼女はため息をこぼす。だが──
「でも、諦めないよ。私は」
「……強情だね」
彼女もそう簡単に折れる気はないようだった。
栗栖さんは、まっすぐに僕の目を見て、自らの意志の強さを訴えかけてくる。彼女とちゃんと話すのは初めてのはずだが、こうなっては梃子でも動かないというのが伝わってくる。
僕の目をまっすぐに貫く彼女の真剣な眼差しが、そう訴えかけてきた。
「わかったよ、僕の負けだ。撮るよ、写真。でも、満足したら帰ってよ?」
「え!? やった! 満足するまで取ってくれるの!? 言質取ったからね!」
「……わかったわかった」
それっぽい写真の一枚でも撮れば満足するだろうと放った言葉が、こうも自分の足を引っ張ろうとは思ってもみなかった。
両手をあげて降参する以外のことは僕にはできなかった。
僕に許された反抗といえば、目線とため息で本意ではないことを必死に示すくらいのものだ。それですら、『嬉しいくせに』という一言の元に押しのけられてしまった。
どうも、写真を撮らない彼女は僕の天敵だったようだ。
「よろしくね、私のカメラマンさん」
「君の専属になった覚えはない」
「つれないなぁ、いいじゃない。今だけ私の専属カメラマンでも」
「わかったわかった、じゃあ早速撮ろうか」
「え? もう? やっぱり秋柳君も乗り気なんじゃないの?」
そう言って、いたずらっぽい笑みをこちらに向けてくる。窓から吹き抜けた赤い陽光を乗せた風が、彼女の髪を、制服を揺らす。その様子は、まさに青春の一ページと言った感じで。
カシャリ。気づけば、その光景をファインダーで切り取っていた。
「ちょっ、そんな急に!? 心の準備もポーズも、何も決まってないんだけどっ!」
「撮ってって言ったのは、栗栖さんじゃん。それに、言ったでしょ『何気ない日常を撮るのが良い』って」
「ちょっと見せて」
そう言うと、彼女は僕の手からひったくるようにカメラを取り上げた。よほど出来栄えが気になると見える。自分の写真写りを気にするところは、他の女子たちと変わらないようだ。となると、浮き上がってくるのは一つのこと。人並みの感性を持った彼女が、どうして進んで写真を撮ろうとしないのか。それを問おうと口を開きかけたとき、
「えっ、すっご。もうプロじゃんこんなの」
カメラの液晶を前に、目を見開く彼女の静かな驚嘆の声が僕の耳に届いた。
ころころと表情を変える栗栖さんを見ていると、『写真の撮りがいがありそうだ』なんて考えが脳裏をよぎった。彼女が浮かべる表情は全てが大げさで、見ているだけで何を考えているかが伝わってくるようだ。それでいて、わざとらしさが一つも感じられない。皆が身につけている表情の仮面が、彼女にはないようだった。
「そこまでじゃないよ。今回は被写体が良かっただけ」
「秋柳くんも隅におけないなぁ。ニヤニヤしながらそんなこと言っちゃって。女の子に向かって『被写体が良かった』だなんて」
悪い笑みを浮かべながら栗栖さんは僕の脇腹をつついてくる。どうも僕の言葉尻に噛みついてからかうことを楽しんでいるようだ。あるいは、彼女たちにとってこれは普通のコミュニケーションなのかもしれない。同じ教室にいながら普段は別の世界の住人である彼女がどういう会話をしているのかは、僕に走る由もない。知っているのは時たま……いや、そこそこの頻度で、大きな笑い声をあげてはしゃいでいるのを見るのみ。何が楽しいのかはわからないが、彼女たちの笑い声は教室内へ充満し、しかして悪くはない雰囲気を作っている。
「ちょっと何か言ったらどうなの!? ニヤニヤしながら見られるとちょっとキモいんだけど……」
「キモいとは聞き捨てならないな。それに『被写体が良かった』って言うのは栗栖さんの表情が良かったって話であって……」
「はいはい、わかったわかった。そういうことにしておいてあげる」
虫を払うようなしぐさと共に、僕の話は遮られた。なんというか、会話のペースを全くつかむことができない。ぐいぐいと引っ張られた挙句、こちらがペースを掴もうとすれば、蝶のようにひらひらと躱される。
「これで満足? カメラ返してほしいんだけど」
「ん、今日の所はね~」
そう言って彼女は林立する机の一つにカメラをポンと置いた。どうやら、これから数日は彼女から解放されることはなさそうだ。
「『今日の所は』って……写真集でも作る気?」
「写真集!! それだ!」
「うわっ……」
またやってしまった。口から出した言葉を全て拾われて、彼女に巻き込まれる方向へとぐいぐいと引っ張られてゆく。
「なによその反応。いいじゃん、写真集。秋柳君も実績欲しいんじゃないの? 部活に昇格できるかもよ?」
「いいよ、僕は写真が撮りたいからやってるだけ。校内で写真を撮る口実が欲しかったから同好会作を作った。それだけなんだよ」
「えー、面白くないなぁ」
「面白くなくて結構。僕は写真を撮ること自体を楽しんでいるの」
「でも、断りはしないんだね」
「良い被写体が自分から来てくれるっていうなら、わざわざ断る理由もない。そうでしょ?」
「うーん? そういうものなのかなぁ?」
「そういうものなの。人を撮るのもやってみたかったからね。練習ができるとなればこっちにもメリットはある」
いまいち想像がつかないのか、彼女は僕の言葉に首をかしげる。
「じゃあ、どうして嫌がったの」
「嫌だったよ、最初は。だけど、君が思ったよりいい表情をしてくれるなと思ったから。言ってるでしょ?『いい被写体だ』って」
「よくわかんないけどいいや! 撮ってくれるってことでしょ?」
それまでうんうんと唸っていたところから一転、吹っ切れた笑みを浮かべる。ふと、その顔の方が似合っているな、なんて思った。
「じゃあ、明日七時で」
「え゛っ」
聞いたことのない声が前方から発せられた。苦虫を嚙み潰したような顔をしている彼女だが、声もそんな感じ、苦虫を噛み潰せばこんな声になるのではないだろうか。
「そんなに早く!? なんで!」
「夕方の写真はもう撮れたからね、次は朝に撮ろう」
「えぇー」
「言い出したのは栗栖さんだからね。じゃあ先生に許可取ってくるから」
机に置いてあったカメラを回収すると、言い訳をする暇も与えず僕は歩き出した。
「ねぇ、ちょっとぉ! わたし朝苦手なんだけどぉ!」
次第に夜闇が支配しだした教室の中から、真夏の陽光のように騒がしい声が僕の背後に降りかかる。縁遠いと思っていた青春だったけど、案外悪くないかもな、なんて思いながら歩く僕の歩調は少し軽やかだった。
***
くぁ。とあくびを一つ。まだ日も上り切っていない薄明かりの中、まばらな電灯に照らされる校舎。その上部に据え付けられている時計は六時四十五分を指している。
太陽ですらまだ寝ぼけ眼をこすっているこの時間、校内には僕と夜間警備員のおじさんしかいない。あるいは張り切った栗栖さんがもう待ち構えているかもしれないが。
止まる気配のないあくびを噛み殺しながら校舎に立ち入り、ほぼ惰性のような染みついた動作で上履きへと履き替え、廊下へと踏み出す。しんと静まり返った廊下には初春といえど寒さが残っており、頬をぴりりと引き締める。
「鍵、鍵……」
どうせ誰もいないとたかを括り、独り言を溢しながら廊下を歩く。まだ誰もいない職員室に滑り込み、目的の教室の鍵を手に入れるとそそくさと退散。教室へと足早に歩き出す。
ガラリと引き戸を開けると、まだ薄暗い教室が僕を迎えた。ここまで五分、栗栖さんが来るまでは、カメラの準備でもしながら一人を楽しもう。
普段は生徒で溢れかえっている教室が無人なのは、少し特別感を感じる。いつもと違う表情、賑やかな場所が見せる静謐さにはなんとも言えない魅力があった。こんなことならもっと早くに朝の学校に来ても良かったな、なんて思いながらカメラを構える。
カシャリ。静けさの中にシャッターの音はやけに響いて聞こえた。
刻一刻と変わる教室の表情を撮るために西の方へとカメラを向けたその時──
「おはよ……ふぁ……」
ちょうど西側にある引き戸から姿を現したのは、僕が待っていた被写体だった。カシャリ。条件反射的に動いた指はシャッターボタンを押し込み、無防備にあくびをかましていた彼女の像をその中へと焼き付けた。
「え、嘘うそウソ! 今すっぴんだったのに! サイアク! 消して! 今すぐ!」
「そこなんだ……」
彼女の逆鱗は僕が思っていたところと違うところにあったようだった。怒髪天を衝く勢いで詰め寄ってくる彼女に画面を見せて、データ消去の証人となっていただくことで、怒りは収まった。
「ごめん、別にドッキリでいきなり撮ろうとしていたわけじゃないんだ……カメラを向けた先に栗栖さんがいて、びっくりしてシャッターを切ってしまっただけで……」
「え〜? ホントに? 昨日の前科があるからなぁ……」
「うぐっ、おっしゃる通りです……」
彼女の攻撃に、服従を示すこと以外できない。実際、昨日は自然な表情を撮るために、抜き打ちのような形で彼女を撮ったわけで、一切の弁明のしようが僕にはなかった。
「なんて、冗談だよ、じょーだん。さっきは突然だったからびっくりしちゃったけど秋柳くんすぐ消してくれたからね、もうそんなに気にしてないよ」
「ちょっとは気にしてるんだ……」
「乙女のスッピンは高くつくからね〜。食べ物の恨みとスッピンの恨みは〜って言うでしょ?」
「その二つって並び立つんだね……というか、スッピンには怒るくせにあくびを撮ったのはどうでも良さそうだ」
栗栖さんは、顎に手を当てて、うーん、と考える仕草をした後に
「ま、減るもんじゃないし」
とあっけらかんに答えたのだった。
「スッピンも減るもんじゃ……」
「減ってますー! 少なくとも私の魅力は三割減ですーだ!」
「……左様ですか」
「左様です! ホント、これだから男子は……!」
ふんす、と鼻息荒く答えられてしまっては、そうですかと言う他ない。それはともかくとして早く準備をしてもらわないと。
「お怒りのところ申し訳ないのですが……」
「なんだね、秋柳クン」
「時間が押しておりますので、少し準備を急いでいただければ幸いです」
「うむ、よかろう」
「ありがたき幸せ」
小芝居を打つ傍らで、彼女の手は、既に僕の催促通りにテキパキと動き始めていた。
「うん? 気になる?」
「ま、まぁ。……気にならないと言えば嘘になるね」
「そんなに私のスッピンをご所望か。しかし残念だったな少年。私は既にベースメイクは済ませてきているのだ〜」
ベースメイクをしているならそれはスッピンとは言えないのではないか、そう言いかけた自分の口をなんとか抑える。目に見えた地雷を踏む趣味はない。
「あ、そうだ。アイメイクとハイライトはちょっと濃いめにできる?」
「うん? なに? 私を好みの女に仕立てようっていう魂胆?」
栗栖さんは、僕の目を覗き込み意地の悪い笑みを浮かべている。
「違う違う。今、ちょっと暗いでしょ。だから輪郭とか凹凸とかがボヤけるんだよ。だから」
「なるほどね〜。今度の夜デートの参考にしようかなぁ」
「……」
今度のデート。その言葉は僕の耳にこびりついて離れなかった。
分かっている。彼女はその容姿と明るさを以て学校中の男子の視線と感心を釘付けにしているのだから、彼氏の一人や二人いたところで不思議ではない。二人いたらそれはそれで問題だが。
ただ、今、目の前で僕に意地の悪い笑顔を見せている彼女の隣に、他の男子がいる姿がどうしても想像できなかった。
「冗談だよ、じょーだんじょーだん。だからそんな辛気臭い顔しないで」
「しっ、辛気臭い顔なんて、して……ない。ってか顔近っ!」
前を向けば、にしし、と日の出の一足先に太陽が僕の顔の前、至近距離に現れていた。
目鼻の周りは薄暗い朝の中でもくっりきと影がついており、僕の指示通りの顔が出来あがっていた。
「どうよ。ご要望通りの、くっきりメイクですぜ?」
「うん。ばっちり。流石だね」
「現役JK舐めんな」
「じゃあ、早速撮ろうか。あんまり時間もないしね」
「はいよ~」
「じゃあ、窓際の席に座って。外を向いてちょっとアンニュイな表情をしてみて」
「アンニュイ、アンニュイ……。うーん、こんな感じ?」
彼女は頬杖を突き、窓の外、眼下の校庭を眺める。朝の控えめな陽光は光の帯を作りながら彼女の背中に降り注ぎ、その顔に影を作る。日ごろから太陽を背負い、周りを照らすような明るさを振りまいている彼女の、知らない一面がそこにはあった。
その様子は、自分が籠の中にいることを知っている鳥のような、自分ではどうしようもない悩みを抱えている少女そのものだった。
僕はシャッターを切りながら、密かに息を呑む。普段の快活な表情とは打って変わって、自分のちっぽけさを知っている一人の少女が、そこにいた。
そして、何よりその表情は──作り物ではなかった。
***
「すごい……」
写真を確認した僕たちは、どちらともなく感嘆の声を漏らした。
「やっぱり秋柳君は最高のカメラマンだよ」
「やっぱり栗栖さんは最高の被写体だ」
互いに互いを褒める華やいだ声が重なる。
お互いに顔を見合わせた僕たちは破顔し、しばらくの間互いの技量をたたえ合った。
ひとしきり褒めあった後、教室前方にある時計に目をやると時刻は七時を少し過ぎたくらい。まだ時間はある。というか、表情を変える学校で彼女を撮影するためにわざわざこんな早い時間を指定したのだ。一枚撮っただけで満足するわけにはいかない。
「じゃあ、廊下で撮ろうか」
「廊下? 写真映えしなくない?」
「まぁ来てみなって」
ガラガラと少し古びた教室の引き戸を開けると、柔らかな朝日が窓から差し込んでいた。
太陽の動きに合わせて、少しずつ窓から入ってくる光量は増えてくる。
「おぉ、光が動いてるねー」
「そうなんだよ!」
見せたかったものがうまく伝わった嬉しさからか、想像以上に大きな声が出てしまった。突然至近距離で発せられた大音声に栗栖さんはびくりと肩を跳ね上げた。
「いきなり叫ばないでよ! ……心臓が飛び出るかと思った」
「ごめん、嬉しかったんだ。見せたいものが伝わって」
「……もう、気をつけてよね」
どうしようもないもの見るような笑みが僕に向けられた。
カシャリ。昨日に引き続き不意打ちの一枚。
完全に上り切ってはいない太陽から発される、柔らかい光のカーテンが彼女を包む。その姿はさながら羽衣を纏った天女だ。
「うん。やっぱりすごいね。本当に最高の表情だ」
「なんか、そんなに褒められるとムズムズするなぁ」
「じゃあ、この調子で撮ろうか」
「秋柳君ノリノリじゃん。まぁ、楽しんでくれるならそっちの方が私も気が楽でいいけどね」
「うん。僕も楽しくなってきたよ。撮り甲斐のあるモデルがいるからね」
栗栖さんの撮影を楽しむようになっている僕がそこにいた。これまで日常を切り取って、その中の特別を探していた。だけれど、初めから特別を撮るために撮影することの楽しさを彼女は教えてくれたのだった。
***
「おぉ、壮観壮観……寒っ」
「だから上着持ってきた方がいいって言ったのに」
周囲に遮るもののない屋上は、見晴らしがいい代わりに風が強く、朝の寒気も相まって、僕たちの体温を奪い去ってゆく。教室を出る前に上着を持ってゆくように言ったはずなのだが、『そんなもんなくても大丈夫でしょ』と元気よく彼女は飛び出していった。その結果がこのザマだ。僕の目の前で自分の両肩を抱いて震えている。
これはこれでおもしろい。思わず切ったシャッターの音は風に流されて、彼女の耳には届いていないはずだ、多分。
「……はい、これ」
着ていた上着を脱いで手渡す。彼女はおずおずと手を伸ばすと、受け取って袖を通した。
「……ありがと。いいとこあんじゃん」
「ひとこと余計だよっ」
言葉を返しながらシャッターボタンに指をかける。カシャリ。無機質なシャッター音は風に流れて消えていった。残ったのは、寒さに頬を赤くしている栗栖さんと、なぜか頬が紅潮している僕。
──少し大きいサイズの男物に袖を通す彼女の姿はまさしく男心をくすぐるものだった。裾が余って、膝上──スカートと同じくらいの丈その上着が自分の物となればなおのことである。
またもや不意打ちを食らった栗栖さんは大きな丸い瞳をぱちくりと瞬かせる。しかし、数瞬の後に彼女は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。そして両手を僕の脇に差し込むと、横腹をくすぐり始めた。
「またこっちが準備できてない時に撮りやがって。このっこのっ!」
「ちょ、くすぐったいって」
「乙女のプライバシーを暴く盗撮魔には必要なお仕置きですーだ」
「誰が盗撮魔だ!」
「許可なく写真撮ってくる野郎が盗撮魔じゃなかったら何だってんだ、このっこのっ!」
「──確かに」
「おい、納得するなよぉ! 余計に気持ち悪いって! ……なんか言ってよぉ!」
ぎゃあぎゃあと騒いでいるからだろうか、冷たい風とは裏腹に僕の体温は上昇するばかりだった。
***
「ふぃぃ、つっかれたぁ……」
屋上で写真を撮り終え、教室で更に数枚写真を撮り、どちらとなく窓際の席に座る。
机を挟んで対面に座る栗栖さんは、伸びをして体をほぐしていた。ポキポキと背骨から発せられる快音が教室に響く。
「お疲れ様。朝の撮影はひとまず終わったから、ゆっくりしておいて。僕は写真チェックするから」
「私も見ていい?」
「どうして?」
特に理由のない疑問をぶつけながらカメラの向きを変え、机を挟んで向かいに居る彼女にも液晶が見えるようにする。自分の写真映りが気になるだけだと言われても『はい、そうですか』で終わる話なのだ。別に見せたくない理由も、見せられない道理もない。
「んー、やっぱ人に見せる写真なんだしさ、妥協したくないじゃん。それに、いい写真撮るからね、秋柳君。写真見てるだけでも楽しいんだ。……おっ、良いじゃんこれ」
頬杖を突きながら写真を確認する彼女から帰ってきた返答は、僕の想像とは少し違うものだった。
「思ったよりストイックだね……。モデル目指してたりするの?」
「ん?なんでモデル?」
「いや、映りに対してこだわってるし、それに──見る人のことを意識してる」
栗栖さんの顔に浮かんでいるのは、焦りの感情だった。図星を突かれた時のような、隠し事がばれそうな少年のような、知られたくない情報に相手が迫っているときに見せる顔。
「あー、確かにそうかも」
「その顔、心当たりはありそうだね」
「うん。あるにはあるんだけど……言いたくない」
「いいよ、他人の秘密を暴く趣味はないし」
「そっか、ありがと」
気にならないわけではない。だけど、無理やり聞くのも憚られた。
昨日出来上がったばかりのこの関係。写真を撮り終えれば終わってしまうかもしれないこの関係。それが存外に心地よくて、壊してしまうのが怖くて、聞くに聞けなかった、と言った方が正しいかもしれない。
今はただ、騒がしくて、それなのにどこか落ち着く、この時間を楽しみたかった。
「そういえば……」
「うん? どうしたの?」
「僕が勝手に場所とか時間とか指定してたけど、栗栖さん撮りたい写真ある?」
「あるよ」
指先で黒い髪をくるくると弄びながらも、視線はまっすぐ僕の方へ。事前に考えていたかのような即答ぶりだった。
「何か聞いても良い?」
「学校の外。──デートしよ? 秋柳君」
「は?」
そうして、彼女いない歴が年の数と同じ僕は、デートへと連れ出されることになった。
***
「おはよー、待った?」
明くる日、僕は駅前に居た。手すりに腰かけ、週末の往来をぼうっと眺めている僕に手を振りながら駆け寄ってきたのは、栗栖さんだった。いつもはまっすぐ下ろしている髪は、ゆるくウェーブを描いている。それに合わせてか、桜色のワンピースで季節感を演出し、いつもより大人びた雰囲気を纏っている。
太陽を背にこちらへ小走りするその姿はまさに『写真集の一枚』にふさわしい。首から下げたカメラに彼女の姿を収めた。遠足の帰りではないが、家を出た時点で撮影は始まっている。
「うん」
ロータリーに高く掲げられた時計は一時二十四分分を指している。待ち合わせの時間は一時。二十四分の遅刻だ。どれだけ綺麗に粧してこようが、遅刻は遅刻なのだ。
「そこは、『僕も今来たところだよ』って言うもんでしょ?」
「一時って言ったの栗栖さんでしょ?」
「女の子の準備は時間がかかるの! モテないよ、そんなんじゃ」
「それは悪うごいました」
「それで、なんか言うことないわけ……?」
もじもじと、こちらの様子を若干の上目遣いで伺ってくる。
そこだけを見ると、服装も相まって奥ゆかしさを感じるのだが、中身はその限りではないことを僕は知っている。だが、やはり容姿は非常に整っている。
「うん。良く似合ってる。季節感もあるし、いつもより大人っぽく見える」
「お、おう」
自分で感想を要求しながらなぜかたじろぐ彼女の頬には、服と同じ桜色が少し差していた。
「どういう反応なんだよ」
「い、いやぁ。思ったよりちゃんと褒めてくれるんだなって」
「別に、思ったことをそのまま言っただけ。それで、どこに連れて行ってくれるの?」
「ん~? 秘密」
満面の笑みをこちらへ向けながら、彼女は軽い足取りで歩き出す。ため息をこぼしているのに頬が緩んでいるのを知覚しながら、僕は彼女に置いて行かれないように歩を進めた。
彼女に連れられた先は、桜で有名な神社。確かに写真にはうってつけの場所だ。
──混雑を考慮しなければの話だが。
「すごい人混み……」
「ちょうど満開の時期だからね……どうしようか。これじゃあ到底写真は撮れない」
栗栖さんは顎に手を当てて、うんうんと唸っている。
「とりあえず、お参りだけしておこうか。それから考えても遅くはないでしょ?」
「そうだね」
いつまでも往来の中で立ち止まっているわけにはいかないので、僕は彼女を促して、ひとまず移動することにした。
「じゃあ、ほら」
栗栖さんは僕の方に手を差し出してくる。それが何を意図しているのかが分からず、差し出された手のひらを数瞬眺めていると、
「手、出して。逸れちゃうから」
そう言って、強引に僕の手を取って歩き出したのだった。
彼女に手を引かれるままたどり着いた拝殿は、参道とは一転してまばらな人がいるのみだった。
「こっちは案外空いてるんだね」
「桜だけ撮って、帰ろうだなんて不信心者めっ!」
「そういうの気にするんだ」
「気にするよ! 神社の土地に入ったからにはちゃんとお参りしないと! それに──」
「それに?」
「……なんでもない」
そう言うと、僕の手を引く力を、ぐい、と強めて彼女は歩き出した。
「──神様にしか頼めないことだってあるんだよ」
ポツリとこぼす彼女の声は、風に攫われて僕の耳には届かなかった。
「あっ」
神様の御前、栗栖さんの小さな声と共に僕の手は解放された。
「あんまり人いないのに、ずっと握ったままだったね」
彼女は照れくさそうに笑いながらそう零した。
手の中の小さな体温が離れてゆくのを少し寂しく思いながら、僕は
「そうだね」
とぶっきらぼうに返すことしかできなかった。
そのまま、ゆるゆると歩を進め、ポケットから小銭を取り出して賽銭箱へと放り込む。コツン、と木の洞から発せられる乾いた音が二つ、言葉のない二人の間に響いた。
「あっ」
鈴を鳴らそうと手を伸ばしたその先には、先ほど僕から離れていった小さな手があった。
「ほら、秋柳君も一緒に」
言葉に促されるまま、綱を掴んだ。努めて彼女の手に触れないようにしながら。
ついさっきまで手を繋いでいたはずなのに、今になって手が触れ合うことが妙に恥ずかしく思えた。
カランカランと低い金属音。
どちらとなくタイミングを合わせ、低頭する。
二度の礼と二度の拍手、そして最後にもう一礼。作法になぞらえる傍ら、僕の意識は正面におわす神様よりも、右手側に立つ彼女に向いていた。
跳ね上がる心音を聞きながら、目を瞑る。何を願おうかと考えたが、頭に思い浮かぶのは、隣で同じく頭を下げている彼女のことばかり。
苦し紛れに『いい写真が撮れますように』と心の中で唱えると、頭を上げた。
ぐるぐると考え事をしていたから、きっと栗栖さんを待たせてしまっているだろう。そう思って、右手の彼女の方を見やると、まだ深々と頭を下げたままだった。
垂れ下がった髪でその表情は伺うことはできない。だけれど、何かを必死に神様にお願いしている彼女を僕はただ見ていた。
しばらくすると、栗栖さんは頭を上げ
「じゃあ、行こっか」
と、何事もなかったかのように歩き出した。
「やけに長くお願いしてたね」
「なに? 横顔に見とれてた?」
「そっ、そんなワケないだろ? それに見えなかったし」
「やっぱこっち見てたんじゃん」
「だって……いや、いいや」
質問をはぐらかされたことに気づきながらも、一歩引く。これ以上追及すると、きっと彼女の触れてほしくないところに不用意に触れることになってしまう。
「優しいね、秋柳君は」
「何だよ、急に」
「うんん、何でもない。 ほら、写真撮ろ? ここなら人少ないしさ」
照り付けるような笑みを取り戻した彼女が指さした先には満開の桜があった。
神様は、早くにも僕の願いを聞き届けてくれたようだった。
願わくば彼女の願いも叶いますように、ささやかな祈りを拝殿へと向けながら僕は彼女の背を追った。
桜の下、木漏れ日に照らされる栗栖さんがこちらに向ける笑みは、いつもと違って、少し曇りがあるように思えた。
***
「ちょっと聞いてもいい?」
「うん? どうしたの?」
桜の下で写真を撮った後、彼女に連れられるまま次の目的地へと向かう電車に揺られていた僕は、昨日聞けずにいた質問を彼女に投げることにした。
「栗栖さんって、全然写真撮らないよね? 僕の見間違いじゃなければ、だけど」
「あー、うん。そうだね。というか、よく見てるねぇ……ちょっと引くんだけど」
「理由、聞いてもいい? 言いたくないなら無理しなくてもいいけど」
「……まぁ、いいか。秋柳君になら話しても。協力させといて理由は話せません、じゃ不公平だしね」
そういう彼女の顔に浮かぶ笑みには、諦念の影が差していた。隠したい事、おそらくは昨日の『言いたくない事』と同じもの。これ以上踏み込めば、少なからず今の関係は変わる。それでも、彼女の笑顔から曇りを晴らしたい、力になりたい。そう思った。
「今の私にとって、一番大切なこと。何かわかる?」
「大切なこと……」
きっとそれは、直接的に彼女の行動に関係している。写真を撮らず、人の写真には映る。そして、絶えず周囲を観察して、目が合った相手には笑顔を振りまく。
写真を撮るよりも大切なこと。自分で撮る写真と他人が撮る写真の違い。
写真とは、『記録するもの』一瞬を切り取って永遠にするもの。つまり、彼女は『記録されよう』としている。
「記録に残ること……?」
「よく分かったね」
そう言う割にはその顔に驚きはなかった。僕がその答えにたどり着くのを予想していたのか、彼女はただ僕の顔を見つめながら笑みを浮かべるのみだった。
「私はね、覚えていてもらいたいの。みんなの記憶に、私が居たって、その証拠を残したいの」
「それじゃあ、まるで……」
──もうすぐ死ぬみたいじゃないか。
そう言おうとした僕の声は、気だるげな列車のアナウンスに遮られた。
「降りるよ、秋柳君」
栗栖さんは、立ち上がって僕の方へ手を差し出してくる。
その手を取って、立ち上がると、僕たちは並んで電車を降りた。
「続きはまた後で、今はもうちょっと楽しみたいから」
「……分かった」
先を行く彼女をよろよろと追いかける。地面が揺らいでいるような感覚に陥った。
先ほどの質問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。これ以上考えても仕方ない、それは分かっている。だけど、前を行く彼女の背を見ると、どうしても気になってしまう。
その胸中に何を抱えているのか、僕が撮る写真が彼女に何をもたらすのか。
「おーい、秋柳君!」
改札の外、眩しいくらいの陽光を背に栗栖さんが手を振るのが見えた。思わずカメラを構えて写真を撮る。今はこれでいい。今は彼女をどう切り取るか、それだけを考えていよう。
僕は頭を振って雑念を追いやると、彼女の待つ方へと歩みを進めた。
***
次なるロケ地に向かう僕たちに立ちはだかったのは長い坂。その続く先を目で追うと、山の中腹にある展望台が遠くに小さく見えた。確かにそこであれば見栄えのいい写真が撮れるだろう。
とはいえ、まずはこの延々と上へ伸びる坂を攻略することから始めなければならない。一歩が重い。この道の先でどれだけの苦痛が待ち受けているだろうかと思うと足が竦みそうになる。その恐怖は、マラソン大会で出走を待つ感覚に近い。
「秋柳くーん!」
知らぬうちに坂へと身を躍らせていた彼女は、西の太陽を背負ってこちらへ呼びかけてくる。
「もう、仕方ないなぁ……」
彼女の後ろから降り注ぐ陽光に目を細めながら、僕は苦難の道へと一歩踏み出した。
荒い息を吐きながら、一歩、また一歩と足を前に送る。前を見ると、僕を待ち受ける長い道のりが見えるのが嫌で、途中からはずっと地面とにらめっこしながら歩いている。
「秋柳君ちょっと体力無さすぎない?」
「悪かったな、こちとら青春を写真に捧げてきたもんでね、生憎山を登るほどの体力を持ち合わせてないんだよ」
「山……? こんなの山を登った内に入らないでしょ」
「嘘だろ……?」
栗栖さんは修行僧か何かなのだろうか。これを山と呼ばないのなら、何を山と呼ぶのだろう。大阪には標高五メートルにも満たない山があるというのに。
彼女に「登山」に誘われた時は付いて行くまい、と固く心に誓った。おそらく生きている世界が違う。
「ほら、もうすぐだから頑張って」
彼女の声にようやく前を向く。
久々に地面以外を見た僕の顔に、木々の香りを乗せた爽やかな風が吹きつけた。登山で少し汗ばんだ体にひんやりとした空気が這ってゆくのを感じた。
「気持ちのいい風だね。それに眺めも、とってもいい」
「うん。運動の後のちょっとしたご褒美だね、これは」
上り切った先、展望台からは僕たちの住む町が一望できた。吹き抜けた風と相まって、僕の心は爽快感と達成感に満ち溢れていた。
「学校ってあのあたりかな……?」
早くも展望台から半身を乗り出し町を眺める彼女、その後姿を見ながら苦笑する。
「あれだよ。ほら、時計が見えるでしょ?」
「うーん? 秋柳君目がいいんだね、私には見えないや」
「被写体を探して遠くを見ることも多いからね、自然にこうなった」
「職業病? ってやつ? でも目がいいなら病気ではないかぁ……」
うんうんと唸る彼女を尻目に僕はカメラの準備をする。
彼女の表情を見ても先ほどの影はどこにも見当たらない。先ほどの言葉通りに今この瞬間を楽しんでいる。少なくとも僕の目にはそう映った。
「じゃあ、始めようか」
沈みゆく夕日が僕たちの町を、そして僕たち自身を赤く染める。
眠りに就こうとしている町を眺めているとどうしてか、少し寂しく感じた。ファインダー越しに映る彼女も、僕と同じ感情を抱えているように僕の目には映った。
純粋に景色を楽しむ姿と、少し感傷に浸りながら街を眺める姿とを数枚ずつ切り取り、記録する。これから、僕たちがどういう道を歩もうとも、その写真を見れば今日のことを思い出すことができるだろう。
「どう? いい感じ?」
「うん、いい感じ。いい表情してる」
写真の中の彼女の表情はいつも自然で。だからこそ、それが曇っていると少し胸が締め付けられる。何が彼女をこんな表情にさせているのだろうと。
カメラを操作して、彼女に撮った写真を見せる。一枚一枚画面を送るたびに「おお」だとか、「ああ」だとか、少し間延びした感嘆の声が聞こえてきて、思わず笑いそうになってしまう。
「ちょっと休憩していこー」
ひとしきり写真を確認し終えた栗栖さんは、ベンチの方を指差しながらそう言った。登坂の疲れが取れ切っていない僕にとっては渡りに船の申し出だった。
栗栖さんの隣、少し距離を空けた場所に腰掛ける。三人掛けのベンチを二人で占有するような形になるが、わざわざ高校生の男女二人が腰掛けるベンチに割って入る物好きはいまい。
「何か飲む?」
「いいよ、そのくらい自分で買うから」
「まぁまぁ、撮影代だと思って」
「でも……」
「いいからいいから」
そう言うと、制止する僕を無視して彼女は自販機の方へと駆けて行った。
世界を赤く染めていた太陽はいつの間にか地平線へとその身を隠しており、それに代わりに闇が辺りを包もうとしていた。
「ほい、コーラ……炭酸飲めた?」
「うん、大丈夫。ありがと」
手渡された缶を受け取ると僕の手にひんやりとした感触が伝わってくる。プルタブを引いて、中の空気を解放する。しゅわしゅわと涼し気な音が鼓膜を控えめに揺らした。
口をつけると炭酸が子気味よく舌の上を踊り、嚥下すると喉を叩いた。特有のどこか薬っぽさを感じる香りが二酸化炭素と共に鼻を抜けてゆく。
二人並んで腰かけた僕たちの間には、コーラを嚥下するかすかな音だけがあった。ただ夜景を眺め、どちらが何を言うでもなくただ同じ空間に居て、同じ時間を共有する。たとえ写真であっても、今この瞬間を完全に切り取るのは難しいかもしれない、そう思った。
「ありがとね、今日は」
「どうしたの急に改まって」
「一日付き合わせちゃったからね、お礼くらいは言っておかないとね」
「いいよ、僕にとってもタメになったし……楽しかったから」
「そっか」
それだけ言うと、彼女はまた静かになった。少し前かがみになった彼女の顔はこちらからは見えないけれど、いつもの笑顔とは違う表情がその顔には浮かんでいることだろう。
「一つ聞いてもいい?」
またしばらくして、ぽつり、栗栖さんは零した。その声は先ほどよりも小さくなっていて、思い出したのは早朝の教室で写真を撮った時の彼女の表情。これからの先行きの分からない将来に漠然とした不安を抱えるただの高校生の顔。
「なに?」
「秋柳君にとって、写真って何?」
この質問に答えれば今の僕たちの関係は終わる。そんな予感があった。どういう形に変わるのかは分からない。だけど、今の形に戻ることが無いであろうことだけは分かった。
「記録だよ。僕の撮る写真にそれ以上の力なんてない。色褪せる記憶を思い返すための記録」
それでも僕は答えた。嘘偽りなく、自分の思っていることを。
彼女が僕を頼ったのなら、行動を以て返したい。そう思ったから。
「もし、その記録の再生機がもうすぐ壊れるとしたら、どうする?」
「……壊れる?」
「そう。──私の目、見えなくなるの」
息を呑むことしかできなかった。僕に話してくれたその決断に水を差すような真似をしたくなかったから。
今、僕にできるのは、ただ彼女の言葉を真正面から受け止めることだけ。
「目にね……腫瘍があるんだって」
「うん」
「さっき、秋柳君聞いたよね、『どうして写真を撮らないのか』って」
「うん」
「写真はね、もう私にとって意味がないんだ。撮っても、もう見えなくなっちゃうから。だけど、記録は残る。私には無意味になっちゃうけど、みんなにとっては……そうじゃない。だから、『記録してもらう』ことにしたの。今の私をみんなに思い出してもらえるように」
「それで僕に?」
「そう。どうせ残すなら綺麗な方がいいでしょ? だから秋柳君に頼んだの。一人で写真同好会やってるようなカメラオタクくんなら上手に撮ってくれるだろうな、っていう打算。幻滅した?」
「幻滅も何も……ハナから隠してなかったでしょ? それに、言い寄ってきて写真を撮らせるようなことはしなかった」
「そうだね、そんな風に見えてた?」
「全く。はじめから、栗栖さんはまっすぐで、嘘なんて一つもついていなかった。だから『君はいい被写体だ』って言ったんだ。君の表情には仮面が無かったから」
「そっか。じゃあよかった。私ね、ちょっと怖くなってきたんだ。ここ数日ずっと秋柳君を付き合わせたでしょ? だから『全部自分のためで君のことなんて一つも考えてません』だなんて言っちゃったら嫌われちゃうんじゃないかって」
栗栖さんの声は、迫りくる暗闇に対する恐怖で震えていた。無理もない。今ある生活がすべて奪われてしまうのだから。僕には想像もつかないその恐怖に彼女は独り耐えていたのだ。心配させるまいと、誰にも明かすことなく。
「──決めた。文化祭で展示する」
「え? でも部活にする気はないって……」
「それは今でも変わらないよ。ただ、どうせ写真集を作るなら、発表する場が欲しい、そう思っただけ。だから、これからは僕に付き合ってほしい。僕の写真集作りに」
結局僕にできるのは、彼女の今を切り取ることだけなのだ。ならば、それをできるだけたくさんの人に見てもらうことができるようにしなければならない。それが今、僕がやるべきこと。
「秋柳君……ありがとう」
僕に感謝を述べる栗栖さんの声は潤んでいた。
日が沈んだ世界で、少し離れた場所にある蛍光灯が彼女を照らしていた。そして同時に僕の方に向かって色濃い影を作った。それはまるで、僕では彼女を照らすことができないと言われているようで、とっさに僕は彼女にハンカチを差しだした。
僕でも彼女のために何かができることを示したかった。彼女の背中に落ちた色濃い影を拭い去ることができると証明したかった。そういう反骨心が混じった、優しさと呼べるかわからない優しさからの行動だった。
「優しいね、秋柳君は」
「……栗栖さんだからだよ」
つまるところ、ここ数日行動を共にして、僕は栗栖さんのことが好きになってしまったのだった。
「え? 何か言った?」
「なんでもない」
だけど、この思いは伝えるべきではない。少なくとも今は。色々と吐き出してぐちゃぐちゃになった彼女の心に、これ以上新しい色を加えるべきではない。色は混ざり合えばだんだんと黒に近づいてゆくのだから。
***
桜も散り、じわじわと暑さの片鱗が顔を出し始めたころ、写真集は完成まであと一歩というところにあった。欲を言えば四季折々、様々な表情の栗栖さんを皆に届けたいところなのだが、時間がそれを許してはくれなかった。そもそも、写真を撮り始めたのが四月の末のことだった。そして、写真集を発表する場である文化祭は、夏休みを控えた七月の半ば。期末テストの抑圧からの解放とともにやってくる。
展示の準備や、間に挟まるテストのことを考えれば事実上の納期はひと月もないくらい。
どうしても春に限定した写真、あるいは季節が関係しないシチュエーションの物を用意する他なかった。
連日様々なところにロケを敢行し、半ばデートのようなシチュエーションの写真を撮ったり、クラスの皆に協力を得て普段の教室での表情を撮ったり、少ない日数の中でできることにはすべて手を伸ばした。
放課後のパソコン教室でモニターを前にして頭を抱える僕の頭上から、いつもと変わらない栗栖さんの明るい声が降ってきた。
「おうおう、煮詰まってるね~」
「どうしても最後の一枚がね」
ページの余白からして最後の一枚。そこにはめ込む最後の一ピースを僕は探していた。
数週間のうちに、百枚単位で写真を撮った。そのどれもに華があったり、あるいはいつもとは違う顔を見せていたり、申し分ない写真なのだが、どうもそれらの写真は最後にはふさわしくないように感じたのだ。
「そんなに悩むなら私が決めようか?」
「栗栖さんに聞いても毎回違う答えが返ってくるからね、当てにしないことにした」
「ひどい! 大事でしょ? その場のフィーリングってやつがさぁ!」
「うん。だから当てにはしないけど、参考にはすることにした」
「なんか違うのそれ?」
「もちろん、栗栖さんの判断を鵜吞みにはしないけど、判断材料にはするってこと。これは僕だけが作る作品でも、栗栖さんだけで作る宣材でもない。だから僕たち二人で考えよう」
「そう来なくっちゃね! 最初の盗撮魔人とは大違いだ!」
「まだ根に持ってるの……?」
「うん。持ってる持ってる。 ずっとポケットの中にしまってる」
「そのうち後頭部をガツンといかれそうだね」
「夜道には気を付けろ~?」
作業の手を止めて、会話を楽しむ時間。彼女と関わる前の僕なら、煩わしく思っていただろう。日常の写真を撮ると息巻いていた僕が、その実日常を一番ないがしろにしているのだということに僕は気づくことができたのだ。栗栖さんのおかげで。
「そういえばタイトルは? どうしたの?」
「僕的には、これが一番しっくりきたかな」
モニターには様々なそれっぽい文言が並んでいる。その中で僕の操るマウスカーソルは一つのタイトルを指し示した。
「『ありのまま』栗栖さんにピッタリだとおもう。仮面なんて付けずに、自分のありのままを曝け出す。良いじゃん」
「じゃあ、それにしよっか。……でっかい隠し事してるのに『ありのまま』かぁ」
「でも、みんなと話してる時あんまり病気のこととか考えてないでしょ?」
「まー、それもそうかぁ。だってせっかく友達と一緒に居るのに嫌なこと考えたくないでしょ? 現実逃避ってヤツ?」
「でも、みんなへの思いやりもある。それでいいんじゃないかな。自然に気を遣えてるのなら、そのままが自然なんだよ」
「お、珍しく良いこと言ったね~」
「茶化すな茶化すな」
「あはは、照れてやんの」
「……それで、話を戻すんだけど、最後の一枚どうしよっか」
「私はね……」
その後も、僕たちは、ああだこうだと言い合ったり、関係ない話をしたりしていた。
最終下校時間の放送が流れ、窓の外を見ると知らないうちに日が沈み、夜闇が辺りに満ちていた。
夜に彼女と一緒に居ると、どうしても展望台でのことを思い出してしまう。彼女にはどれくらいの時間が残されているのだろうか。彼女が思うような写真集になっているのだろうか。そして、僕は彼女を少しでも照らすことができる存在になっているだろうか。
あの夜に感じた不安が、泥のように噴き出してくる。
「なんか浮かない顔だね」
校舎を背にグラウンドを横切る最中彼女は僕の顔を見てそう言った。
きっと不安が顔に出ていたのだろう。彼女を元気づけようと、支えようとしているはずなのに、むしろ心配をかけてしまっている。
「……僕は、栗栖さんの力になることができているんだろうか」
「なに? 急に。そんなこと気にしてたの?」
僕の顔を覗き込む彼女は、『心配して損した』とでも言いたげな表情をしていた。
「なってるよ。十分すぎるくらいに。秋柳君がいなかったら、こんなに綺麗に写真撮れてないし、それに……こんなに楽しくなかっただろうから」
「そう……なの?」
「そうなの! 私たちが作る写真集の名前は?」
「……ありのまま」
「でしょ? 私は君の前でも、仮面をかぶった覚えはないよ。そんな不満そうに見えてた? 私」
「いいや、全く」
「でしょ? じゃあ、そういうことなの。君といる時間は結構楽しいの! 納得してくれた?」
「……うん」
「それに、目のことを話してる分みんなよりも君にはもっと『ありのまま』を曝け出してるんだよ? 嫌いな人の前でそんなことするわけない……じゃん」
勢いが良かった彼女の剣幕は徐々にその勢いを失ってゆく。声の主は何かに気づいたような表情をしていた。
それはともかくとして、彼女の言葉で目が覚めた。元気づける側が元気づけられるなんて実に情けない話なのだが、彼女の言う通り、彼女は僕に見せる表情は笑顔がほとんどだった。それだけで十分じゃないか。
「そう、だね。いらない心配をしていたみたいだ。ごめん」
「……分かればいいんだよ分かれば」
声を張り上げたからだろうか、栗栖さんの頬は少し紅潮していた。
「あ、そうだ。明日予定ある?」
校門に差し掛かろうとしたとき、前を行く彼女は振り返って僕にそう問いかけた。
「いいや、大丈夫。予定はないよ」
「じゃあ、行こっか。最後の一枚のロケ」
「分かった」
栗栖さんが僕に向ける少し寂しさげな笑顔からは、何か覚悟のようなものが見て取れた。
その表情に何か嫌な予感を感じながらも、僕は彼女の撮影に臨むことにした。
「じゃあ、駅に九時。大丈夫そう?」
「もちろん。朝が苦手な栗栖さんが心配なくらいだよ」
「失礼な、私は学校に七時に呼び出されても来れる女だぞ。あまり舐めるな」
「それは失礼いたしました」
「じゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日」
一転していつもの笑顔を取り戻した栗栖さんは、勢いよく駆けて行った。僕は彼女の姿が曲がり角に消えるまで眺めていた。彼女がそのまま消えてしまいそうな、そんな気がしたから。
***
「珍しいね」
「似合ってるでしょ」
「うん、似合ってる。眼鏡は人を知的に見せるね」
駅に現れた栗栖さんは珍しく眼鏡をかけていた。シルバーフレームの丸眼鏡。ピンクベージュのトップスにスカートのようなワイドのズボンを合わせて、いていつもよりずいぶん大人っぽく見える。女性の服の名称が複雑すぎて上下ともに何という名称の物なのかが分からないのが玉に瑕といったところ。瑕があるのは僕の知識の方なのかもしれないが。
「なんか含みのある言い方だね~」
「それで、本日のロケ地はどちらで?」
「まぁまぁ、着けばわかるから。ほら、行くよ?」
それだけ言うと栗栖さんは駅の改札の方へと足早に歩いていく。
彼女の姿が人混みに消えてしまう前に僕はその背を追った。
彼女に連れられるまま電車に揺られ、到着したのは閑静な住宅街の中に佇む駅だった。
「本当にここで合ってる?」
「もちろん。間違えるはずなんてないよ、ここだけは」
栗栖さんの言葉に首を捻る。何か思い出の地なのだろうか、とも思ったが、先ほどの『着けばわかる』という言葉を思い出し、ひとまず思考を放棄して歩を進めることにした。
住宅街をしばらく歩くと、見えてきたのは一面の白い壁。微かに太陽の光を反射しているそれに、ほんの少しだけ目がくらむような感覚を覚えた。
「病院……?」
「そ、ここのね」
栗栖さんはあっけらかんとした表情で話しながら、自分の目を指差す。
しかし、彼女の頬は少し強張っているのを僕は見逃すことができなかった。
「不安なの?」
「……まぁ、そりゃぁね。ってか気付くんだね」
「まぁ、そりゃぁね。これまで僕が何を撮ってきたと思ってるの?」
「そりゃそうだ」
からりと笑いながら彼女は白亜の建物へと向かって歩いてゆく。
願わくば彼女の隣でその苦しみを分かち合うことができるように、そう思いながら僕は置いて行かれないように彼女を追いかけて歩きだした。
中に入り、ロビーに座って栗栖さんの受付を待つ。
消毒液の匂いなのだろうか、病院特有の香りが、つん、と鼻をついた。
血色の悪い人から至って元気そうな人まで、老若男女様々な人が往来している。栗栖さんは元気そうな人に該当するわけだが、その実彼女を蝕む病は誰よりも深刻である。
「お待たせ。行こっか」
手続きを終えた栗栖さんは、何やら書類の束を抱えてこちらへ戻ってきていた。
「どういうことか、詳しく聞いてもいい?」
「うん。歩きながら話そう。こっち」
彼女が指さした方向の案内板には『病室』の二文字があった。
「入院するの?」
「うん。まぁ、経過観察の検査入院みたいな? そんな感じ」
「じゃあ、そんなに長くはかからないんだね」
「うん、今日入院の明日退院で、月曜日には学校に行ける予定」
「それは良かった。文化祭は一緒に参加してもらわないと困るからね」
「病人に言うセリフなの……? それ」
「そりゃぁもちろん。君が始めて僕が繋いだ作品なんだから。一緒に発表しないと意味がないでしょ?」
「それは……絶対に休めないね」
そう言って栗栖さんがふわりと笑ったその時、柔らかい風がカーテンを押し上げ、窓から差し込んだ陽光が彼女の顔を照らした。
ごくり、息を呑んだ。ただただ美しい、そう思った。
この一瞬が永遠になればいいのに、そう思うほどに彼女の笑顔は僕の心に深く突き刺さった。
「? どしたの?」
「カメラを構えてなかったことを後悔しただけ」
言葉とは裏腹に、後悔はそう大きくはなかった。この笑顔を切り取って他人に見せる事が憚られたから。俗な表現だが、心のシャッターを切って、自分の中だけに留めておくことができたから、これ以上望むことはなかった。
「そう? 私ってばそんなに映える? 映えちゃう感じ!?」
「そうそう、君は映えるんだよ。最高の被写体さん」
「そうでしょそうでしょ?」
彼女はむふん、と自慢げな顔をしながら胸を張る。
皮肉が通じていないのか、受け流しているのかは僕にはわからなかった。
「じゃあ、あんまり僕が長居するのもなんだし、さっさと写真撮っちゃおうか」
「うん、よろしく」
栗栖さんは、こくりと頷いてベッドへと潜り込んだ。
素直な彼女を見るのはなんだか新鮮で、むず痒い感じがする。
窓の外を眺める彼女をレンズに収め、シャッターボタンを押した。控えめなシャッター音が僕たちの沈黙を破る。
「最後の写真、本当にこれでいいんだね?」
「うん。みんなにもそのうちバレちゃうことだからね。逃げ続けるわけにはいかないよ」
「そっか」
「じゃあ、帰って編集するね」
「うん。任せた。ごめんね、何もかも任せっきりで」
「謝ることはないよ。栗栖さんがいなけりゃそもそも完成しなかったんだから。お互い得意なことをやってるだけの話だよ」
「そっか。ありがと」
「どういたしまして。じゃあ月曜日待ってるからね」
「うん。写真期待しとくね。今日はありがと、ここまで一緒に来てくれて」
「うん、元気でね」
後ろ髪を引くものがあったが、ここは病院で彼女は患者、ほかのベッドにはもちろん患者がいる。長居して騒がしくするわけにもいかなかった。
栗栖さんに背を向け、病室を後にする。
病院の廊下は一人で歩くにはあまりにも静かすぎた。
***
「栗栖は……今日は休みだ」
週明けの月曜日。ホームルームで担任の口から発された言葉に僕は口をあんぐりと開いた。
写真集を彼女に見せることができるように、張り切ってすべてのページの編集を終えて、あとは冊子にするだけの状態にしたというのに、肝心の栗栖さんが学校に来ないのでは意味がない。
退院できるといっていたから風邪だろうか、そう思い込むことで肌を伝う悪い予感をむりやり拭い去った。
学校で落ち着かない時間を過ごした僕は、放課後病院へ向かう電車に揺られていた。杞憂であれと願いながら。
まっすぐ帰ろうと思ってもいたのだが、昼休みに送ったメッセージに返信がなかったことが僕の背を押した。
目的の駅に到着すると僕は走り出した。走らなければ不安でどうにかなってしまいそうだった。
僕の不安をよそに白亜の巨塔は天を割くように聳え立っていた。
手早く受付を済ませると足早に病室へと向かう。受付ができたという事実が僕の焦りを加速させる。それはつまり、彼女がまだこの病院に入院しているということの証左なのだから。彼女の身に何かイレギュラーがあったということの証なのだから。
「栗栖さんッ……!」
病室の引き戸を開けて病室へと飛び込んだ。入って右奥の彼女のベッドへと一直線に歩いてゆく。
「秋柳君……なの?」
帰ってきた声はいつもの快活な様子からは想像もつかないほど弱り切っていた。
僕と彼女とを遮るカーテンを押しのけたその先にいた彼女の姿に僕は息を呑んだ。彼女の眼を覆い隠すように顔の上半分に包帯が巻かれた栗栖さんが、ベッドに力なく横たわっていたのだった。
「そうだよ、僕だ。秋柳蓮だよ……」
彼女の手を握るとびくり、とその体が驚きに小さく跳ねた。
「ごめんね、ちょっと……ちょっとびっくりしちゃって」
そういう彼女の声は、風が吹けばかき消えてしまいそうなほどに弱弱しかった。
潤みを孕んだ声で彼女は続ける。
「私……私ね、間に合わなかった。もう、見えなくなっちゃった」
栗栖さんの包帯で覆われた顔、その目があるであろう場所が次第に濡れていくのが見えた。
彼女は泣いていた。不安が、恐怖が、その目を濡らしていた。
僕は自分を殴りつけたくなった。放課後なんて待たずに授業を抜け出してここに来るべきだったのだ。その間も彼女は不安に押しつぶされそうになっていたに違いないというのに。自分の直感を信じて真っ先にここに来ることができれば、もう少し彼女の孤独を分かち合えたかもしれないというのに。
「……いっしょに、写真集作るって言ったのに。ごめんね」
続く彼女の言葉に僕は驚いた。不安を叫ぶでもなく、恐怖を訴えるでもなく、謝罪。泣きながらも僕に謝る彼女に心の強さを見たと同時に、どうしようもなく自分が情けなくなった。彼女にこんな言葉を口にさせる自分が許せなかった。
「謝るのは僕のほうだ。もっと早くに来るべきだった。ごめん」
「こうして来てくれたから許す」
涙を拭うような仕草をして、いつもの調子でおどけるように言うが声の揺らぎは隠せていなかった。
「いいよ、無理に笑わなくても。辛い時に辛いって泣くことができるのが、君のいいところなんだから」
「うん……じゃあ、ちょっと甘えていい?」
「もちろん、僕にできる事なら何でも言って」
努めて優しい声で彼女に語り掛ける。ここで僕が同様しようものなら、それは彼女にも伝わりかねない。だから、優しく、平静を装って語り掛ける。
「……胸貸して」
栗栖さんが僕の手を握り返す力がきゅっ、と強くなるのを感じた。
まるで僕を逃がさないように捕まえているようだった。僕がどこかに行ってしまうのが怖くて、暗闇の中に一人になるのが怖くて。
「僕のでいいなら。体、触るよ?」
「……なんかエッチ」
「その元気があるなら大丈夫そうだね」
軽口を叩きながら彼女の体を起こし、僕の方へと導く。栗栖さんは、僕の体をあちこちぺたぺたと触って確認しながら、僕の胸へと収まった。
「秋柳君……私怖いよ」
「うん」
「どうしたらいいの、何も見えないの」
「──僕が君の、再生機になる」
「え?」
口を半開きにして、きょとんとした表情で胸の中の栗栖さんは僕の顔を見上げてくる。
「僕が撮った写真が君にも伝わるように、僕が栗栖さんの記録の再生機になる……栗栖さん、栗栖穂香さん」
「……はい」
「僕と付き合ってほしい。僕を、君の目にしてほしい」
「だめ。それはできない。私は君の足を引っ張りたくない」
心身ともに弱り切っているはずなのに、力強い否定だった。
「そんなこと気にしなくていい」
「私、目が見えないんだよ!? 見えなくなっちゃったんだよ? 君がとってくれた写真だって見れないし、今どんな顔で私のことを見ているのかもわからない。君が好きになった私とはもう違うの!」
「違わない。今だって僕を気遣ってくれてる。そういうところを好きになったんだ、僕は」
「……ずるいよ」
「ずるくてもいい。君の孤独を少しでも背負わせてほしい」
「……うん」
しばらくの間、病室には彼女がすすり泣く声だけが響いていた。
***
「いやぁ、盛況、盛況」
「まさか午前中で全部無くなるとは思わなかったよ」
文化祭の午後、僕は栗栖さんが座る車いすを押しながら屋台を見て回っていた。
本来ならば一日中展示に拘束されるはずだったのだが、用意していた部数をすべて午前中のうちに配り切ってしまったため、こうしてゆっくりと文化祭を見て回る時間ができた。
「うーん、この匂いは……唐揚げ!」
「よくわかったね。買いに行ってこようか?」
そう言い、車輪のロックをかけようとしているところで、服の裾が控えめに引っ張られるのを感じた。
「嫌。連れて行って」
「さながら幼稚園児だ」
「うっさい。可愛い彼女が一緒にいたいって言ってるんだから彼氏冥利に尽きるでしょ?」
「そりゃそうだ。可愛い彼女のお願い事は聞かないとね」
車輪が奏でるカラカラという音は文化祭の喧騒に消えていった。
「んー! うまい!」
唐揚げを口にしてご満悦な彼女を連れて、僕は屋上へと向かっていた。
校内はがやがやとした喧噪にあふれていて、聴覚が頼りになった栗栖さんには毒だと思ったから。
校内にはエレベーターなんて便利なものはないため、栗栖さんの手を引いて階段をゆっくり上ってゆく。
「いつかの逆みたいだね」
「うん?」
「ほら、展望台に上った日」
「あー。あれは蓮くんがすぐにバテるからじゃん」
「いや、そうなんだけども、くり……穂香は穂香で元気すぎるんだって」
「蓮くん」という呼び方には未だにむず痒いものを感じる。付き合って数日、早々に元気を取り戻した栗栖さんは、突如僕をそう呼び始めた。曰く、付き合うなら名前呼びは必須だとのことで。
つまり、僕が「穂香」と呼ばないと怒る。
「着いたよ」
「うーん。風が気持ちいいー……っと」
「おっと」
僕の手を離れ、両手を頭上に組んで伸びをする栗栖さんがバランスを崩した。まだ盲目の世界に慣れきっていない彼女はたびたび重心の置き所を見誤る。数日も一緒にいれば慣れたもので、自然に彼女の体を支えることができるようになった。
「ありがと」
「このくらいなんともないよ」
屋上には人はいなかった。校内のどこに行こうが、にぎやかな声からは逃れなれないがここだけは違った。
「思い出すね。一緒に屋上にあがってさ」
「穂香はぶるぶる震えていたね」
「だって、あんな寒いと思ってなかったんだもん」
「言ったのに、上着はいいのかって」
「盗撮魔の助言なんて聞きませんーだ」
「まだ言ってるの……」
「言ったでしょ? 根に持つって」
「じゃあ、盗撮魔の秋柳君が、最高の被写体の穂香さんの写真を撮ってあげましょう。はい、ちーず」
「ちょ」
彼女の声を遮るように軽快なシャッター音が屋上に響いた。
「また不意打ちじゃん、しかもそれ私見れないし」
「……そういえばさ、前に僕にとって写真が何か聞いてきたよね」
「え、うん。なに? 話逸らしにかかってる?」
「うん。思いっきり逸らすよ。それで、あの答えには続きがあるんだ」
栗栖さんは何も言わずに続く僕の言葉を促してくる。
「写真はただの記録でしかない。だけど、僕たちはその写真に魔法をかけることができる。一瞬を切り取って永遠にできる魔法を」
「詩的だね」
「うん。その魔法はもうかかってる、穂香にも」
「私にも?」
こてん、と首を傾げながら、栗栖さんは僕のほうへと顔を向けた。
「そう、その魔法の名前は『思い出』って言うんだ」
「そっか、私にも、魔法がかかってたんだね」
「そう、そして、その魔法はこれからもかけ続ける。僕が、穂香に。いろんなところに行って、いろんな思い出を作って。それは全部色褪せない」
「じゃあ、これからもよろしくね。蓮くん。いっぱい思い出を作ろう」
彼女と僕が歩む道はきっと平坦ではないだろう、きっと山があって、谷があって、そのたびに目の見えない彼女は立ち止まることを余儀なくされる。だけど、一人じゃない。穂香には僕がいて。だから、どんなことでもきっと乗り越えることができる。
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