第3話「濃霧の向こう」
夜の谷は、音を吸い込んでいた。
足元の草がかすかに擦れるたび、音が波紋のように消えていく。まるで世界そのものが深く沈んでいるようだった。
ヘッドランプの光は、白く濃い霧にすぐ飲まれ、数メートル先までしか届かない。自分の輪郭さえ曖昧になるような夜のなかを、私はひとり歩いていた。
──昨日の空が、胸から離れなかった。
ほんのかすかな違和感。星が、少しだけ少なく見えた気がした。それだけのことなのに、その夜からずっと、胸の奥に小さな揺れが残っていた。
観測地のひとつ、丘の上の岩場に着くと、私は背中を丸めて腰を下ろした。
いつもなら落ち着くこの場所も、今日はどこか、張りつめた緊張をまとっているように感じる。
──今日は、霧が晴れる。
意味のない直感だった。でも、そう思えてしかたがなかった。朝に星蕾草が早く花開こうとしていたこと、ミラーの観測データのわずかなずれ、コリナの言葉。
それらがどこかで結びつき、私の中で、はっきりとした“予感”になっていた。
霧は、まだ濃いままだった。
何も見えない白のなか、私は膝を抱えて空を見上げる。そこに星があることは知っているのに、今はその存在すら信じられなくなる。
この惑星の霧は、ただ隠すのではなく、世界そのものをいったん“無”に戻すような力がある。
しばらくして、風が吹いた。
この谷ではめずらしい、乾いた冷たい風。
その風が、霧をゆっくりと撫でるようにして動かした。
視界が、少しずつ開けていく。
黒と白の境界線に、星の光が一つ、また一つと浮かびはじめた。
──そして、その瞬間。
空の一角で、星が“遮られた”。
まるで何かが、ゆっくりとその前を横切ったかのように。
それは雲ではなかった。
黒でもなく、透明でもない。
星の光をぼんやりと透かしながら、空の奥に網のような“なにか”が、確かに存在していた。
私は思わず立ち上がった。
足が、勝手に一歩前に出る。
そこにあるのは、言葉では説明できない“構造”だった。
無数の線が織り込まれたようなかたち。ふわりと漂っているようで、どこかしっかりと“そこにある”と感じさせる重みがあった。
それは、自然の一部ではなかった。星雲や光のいたずらではない。
誰かが、何かを意図して“編んだもの”。
そうとしか思えなかった。
心臓が、胸の奥で静かに鳴っていた。
鼓動の音が、身体の内側に反響している。まるでこの構造体と共鳴しているように。
私は声を出した。ほとんど囁きに近い。
「……あなた、なの?」
返事はなかった。
でも、その影は、まるでこちらを見返しているようだった。
星を透かして、私を。
その視線に触れられたような気がした。
それは“見られる”というより、“記憶に触れられる”ような感覚。
自分でも気づいていなかった過去の断片に、そっと指先が触れたような──そんな揺らぎ。
その瞬間、私は過去の“彼女”との接触を思い出していた。
あの、谷で意識を失いかけた日。
言葉もないのに伝わってきた何か。
それと同じような、“意思の輪郭”がこの空にもあった。
けれど、やがて風が止んだ。
霧がゆっくりと戻ってくる。
その構造体は、霧の奥に、まるで最初から存在しなかったかのように静かに姿を消していった。
私は深く息を吐いた。
呼吸のたびに、空気がほんの少し違っているのがわかる。冷たさの奥に、どこか鉄のような匂い──あるいは、湿った記憶のようなものが混じっていた。
夜は、何も語らない。
けれど私は、もう知ってしまった。
星の奥には、“誰か”がいる。
その誰かは、黙って見つめ返してくる。
その静けさのなかに、確かな意志が編み込まれていた。