第2話「ゆらぎ」
拠点の空調音が、かすかに耳に残る。
霧の中を何時間も歩いた身体には、密閉された室内の空気が妙に乾いて感じられた。温度も湿度も一定に保たれているはずなのに、呼吸がしにくい。
きっとそれは、肺ではなく、もっと奥の感覚の話だ。
観測データの同期が、わずかにずれていた。
ミラーが不満げにディスプレイを叩く。
「また、0.03秒ずれてる。何なんだ、これ。こっちはタイムスタンプ手動補正したのに」
私は声をかけずに、隣の端末に腰を下ろす。冷たいシートが背中に張りつく。
データログを開いて、採取した数値を一つずつ取り込む。星蕾草の成長曲線、土壌水分、微粒子の分布──どれも一見問題ない。
けれど、“何かが噛み合っていない”感覚だけが、薄い膜のように全身に残っていた。
「植物が早く咲いたんだって?」
ミラーの声に振り返ると、彼はコーヒーパックを振りながら、こちらを見ていた。
「三日ほど。明確な異常とは言い切れないけど」
「気候データは安定してるんだがな。風向きも湿度も定常範囲内。……お前、昨日の夜の空、見たか?」
私は首をすくめた。
「霧が薄かったけど、はっきりとは。……なんだか、いつもより星が少ないような気がした」
「俺も。いや、ログ見る限り誤差範囲なんだけどな。気のせいってことで納得した方が楽だ」
ミラーはそう言って、肩をすくめた。
でもその目は、一瞬だけ何かを思い出すように細められていた。
私は彼が視線を戻したあと、そっと夜間観測カメラのログを開く。
連続画像の中、一枚だけ──光の筋が、わずかに歪んでいた。霧か、反射か、それとも。
“気のせい”は、よく似た仮面を被る。
けれど、心は知っている。
その夜空に、何かが潜んでいたことを。
夜、食堂の窓際でコリナと並んで夕食をとる。
スープの湯気と、遠くで響く水音が、拠点の時間をやさしく縫い合わせていた。
「今日は、霧が少し薄いね」
「うん。……星が見えるかもしれない」
そう言いながら、私たちは静かにスプーンを運んだ。
部屋の照明は少し落とされていて、外の白さと内側の影が、不思議な対比を作っていた。
「ねえ、アイリス」
コリナが、湯気の向こうでぽつりと口を開く。
「星って、遠いのに、近い気がすることってない?」
私はすぐには答えられなかった。
その問いは、ただの感想にも、何かを見透かすような詩にも聞こえた。
「昨日、夜に窓から見たとき……星がすごく、沈黙してるように思えたの」
「沈黙、って?」
「うん。声じゃなくて、“呼吸してない”っていう感じ。あそこにあるのに、届かないっていうか」
私はスプーンを置いて、彼女の横顔を見た。
彼女はまだ外を見ていた。瞳に映っているのは、白くぼやけた霧の景色。
「……私も、似たようなことを思ってた」
「ほんと?」
「何かが、すこしだけ変わった気がした。でも、それが何かはまだわからない」
コリナはうなずき、小さく笑った。
「私たちって、そういうの感じ取りやすいのかな。……それとも、この星が、そうさせるのかも」
窓の外にはまだ何もない。
けれど、私たちは時折、黙ってその向こうを見つめた。
夜が来るのを待つのではなく、夜に“何か”が訪れるのを、静かに感じながら。