第1話「花のほころぶ日」
風のない朝だった。
霧はまだ厚く、あたりの輪郭をひとつずつ呑み込んでいたが、地面に膝をついて観察していると、光の在りかがわかる気がする。植物たちは、私よりも早く朝に気づいていた。
茎を伸ばしたばかりの星蕾草が、小さな白いつぼみを空へ向けて揺らしている。開花までは、あと数日かかるはずだった。そう、記録が確かなら。
──たしか、五日前にもここで観察した。
そのときは、つぼみがまだ地面に近い位置で硬く閉じていて、葉脈もやや薄かった。朝露をはじく弾力と、触れたときの冷たさ──私の手の感覚は、いまもその記憶を覚えている。
私は観測キットを開き、成長曲線のデータと見比べる。根本の色、葉の厚み、湿度と日照時間。どれを取っても、この花は“予定よりも”少し早く咲こうとしている。
「……気のせい、かもしれないけど」
自分にそう言い聞かせながらも、手は迷わず筆記に向かう。定点観測のページに、今日の気温とつぼみの開き具合を記す。
こういう“ずれ”が、たいてい最初の合図になる。かつて地球で起きた植物の異変も、こんなふうに静かだった、と聞いたことがある。
星蕾草──その名は、つぼみが夜の星のように微かに光ることからつけられた。葉の間に小さな発光器官があって、夜露に濡れると反射するようにきらめく。
地球にはなかったタイプの光合成植物で、この星では比較的どこでも見られるが、開花のタイミングは極めて繊細だ。
“何かが変わった”と、そう思わせるには充分だった。
足元で、小さな音がした。風のないはずの朝に。
ふと顔を上げると、霧が少しだけ揺れていた。向こうにあるはずの丘の稜線が、輪郭だけ浮かび上がっている。
──いつもと、何かが違う。
そう思ったのは、きっとその瞬間だった。
調査を終えて帰路につくころ、太陽はようやく霧を割って顔を見せていた。淡い光が霧の粒を照らし、まるで空気そのものが輝いているように見える。
この星に降り立ってから何度も見た朝のはずなのに、なぜか今日は、その美しさが胸に沁みた。
「アイリス、応答して。こちら拠点コリナ」
ヘッドセットに届いた声は、少しだけ楽しげだった。
私は通信を繋げ、返事をする。
「こちら調査班。星蕾草、開花予兆あり。予定より約三日早いかも」
「へえ、それは記録しておく。……てことは、あの場所、やっぱり育ちやすいんだね」
「日照条件が安定してるから。あと、地下水の流れも関係あるかも」
会話の中で、私はふと空を見上げた。
霧の上に広がっているはずの青。だけどそこには、なにか──薄い違和感のようなものが、確かに残っていた。
「ねえ、昨日の夜、空見た?」
コリナの声が、少しだけ間を置いてそう言った。
私は足を止めたまま、応える。
「星が、なんとなく少なかった気がしてさ。気のせいかな」
「わからない。でも、私も少し……同じことを思ってた」
空気が、何かを含んでいるように感じた。言葉にはできないけれど、何かが変わろうとしている──そんな予感だけが、じんわりと胸に広がっていた。
私は立ち止まってもう一度、霧の向こうを見つめる。
静かで、白くて、いつもと同じ朝。
だけど、私の中の何かが、その景色を“始まり”として受け取っていた。