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霧の奥、星の手前  作者: 星☆
第二章「霧の谷の出会い」
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第4話「帰還」

 拠点に戻ったのは、三日後の午後だった。


 人工地盤の上に足を踏み入れたとき、足裏に伝わる感触がどこか懐かしく感じられた。

 人のいる場所の匂い。湿った金属、わずかに焦げた電気系の香り。遠くから聞こえる会話。

 霧の谷での静寂とあまりにも対照的だった。


 研究棟の前に立つと、植物を守るためのガラスパネルに、自分の姿が映っていた。

 髪は湿り気を帯び、足取りもまだ本調子ではない。だが、あの谷で見た“もの”の余韻が、なぜか彼女を支えていた。


 「戻ったか。無事でよかった」


 カスガが中から出てきて、いつものように眉をひそめた。彼は観察記録を真っ先に気にしたが、アイリスの顔を見て、少しだけ表情を和らげた。


 「転倒した? 記録だと位置が一時消えてたぞ」


 「……ちょっと、足を滑らせただけです。でも、問題はありません」


 「ふむ……やはり、あの谷は危険すぎる。今後は遠隔観測だけで済ませよう」


 その言葉に、アイリスはかすかに眉を動かした。

 ——あの場所を、ただ“危険地帯”として閉じてしまっていいのか。


 けれど、言葉にはしなかった。


 採取してきた《ルタ=エスト》の葉を静かに差し出す。カスガは受け取り、端末に読み込ませながら首をひねった。


 「……奇妙だな。反応値が高すぎる。こんな変化、あったか?」


 「はい、現地で観測したときから、少し異常な成長をしていました」


 「異常、ね……」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、静かに端末の表示を見つめていた。

 彼なりに、そこにある“何か”を測ろうとしていたのかもしれない。

 けれど、データの先にあるものに、名前はついていなかった。


 研究室を出たあと、彼女は敷地の裏手にある温室へ向かった。


 そこには《ルタ=エスト》と近縁の植物が並んでいて、定期的な観察が必要だった。けれど、今日はただ、その緑の間を歩いてみたかった。


 温室の空気は、霧の谷よりもずっと乾いていた。けれど、ほんのわずかに、あの霧の残り香が、葉の表面に残っているような気がした。


 棚の隅にある、古い試験苗の一角。誰も近づかないその場所に、アイリスは立ち止まった。


 ——あの気配は、ここにも来るだろうか。


 そう思ったとき、不意に温室の天井越しに、霧がわずかに晴れた。


 天窓の向こう、薄雲の裂け目から、星のきらめきがひとつだけ見えていた。

 あの夜と、同じ光だった。


 拠点に戻る通路で、コリナとすれ違った。


 彼女はいつものように端末を抱えていて、少し急いでいるようだったが、アイリスの顔を見ると立ち止まった。


 「おかえり。……無事でよかったよ」


 「うん。ありがとう。ただの転倒だった。……でも、ちょっと、不思議なことがあったの」


 言いながら、アイリスは言葉を探していた。

 “何か”を感じたことは確かだった。けれど、それが何かを説明できる自信はなかった。

 それでも、話したいという気持ちが、心の奥で脈打っていた。


 「霧の中で……誰かがいたような気がしたの。姿は見えなかったけど、まなざしみたいな、あたたかいものがあって……。

 記憶に触れるような感覚。言葉じゃないの。でも、確かにそこにいたと思う」


 コリナは黙っていた。驚いたようでもなく、ただ、静かに聞いていた。


 「そういうのって、あると思うよ」


 「え……?」


 「説明がつかないだけで、この星には、まだわたしたちの知らないものがいっぱいある。

 アイリスの言うこと、なんとなく……分かる気がする」


 それだけ言って、コリナはまた端末を抱えて歩き出した。

 けれどその背中には、少しだけ柔らかい“余白”のようなものが残っていた。


 アイリスは、その余韻に助けられるように、小さく息を吐いた。

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