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霧の奥、星の手前  作者: 星☆
第二章「霧の谷の出会い」
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第1話「谷へ」

 霧は、朝よりも深く、重たく、足元を包み込むように広がっていた。


 アイリスは、腰の端末で位置を確認しながら、慎重に斜面を降りていた。ここは“灰白の谷”と呼ばれる、まだ地図にも正確な線が引かれていない地域だった。入植から十年が経ったこの惑星にも、まだ誰の足跡もついていない場所がいくつもある。


 視界の端が曇る。霧は風に流されるでもなく、ただそこに沈殿しているようだった。ひとつ呼吸をするごとに、肺の奥まで冷たさがしみ込んでくる。


 今回の調査対象は、その谷底に育つ植物《ルタ=エスト》。通称「眠り草」。発芽のタイミングが不規則で、年に一度しか現れないこともあるという。生態がつかめず、分類も保留のままだ。


 この調査をアイリスに託したのは、研究班のカスガだった。仲間内では彼だけが、アイリスの観察眼を「特異」と言った。

 ——君は、植物の“言葉”を読むんだね。


 その言葉を聞いたとき、彼女は苦笑するしかなかった。確かにそうなのかもしれない。けれどそれは、「ほかの人とは少し違う」という言外の線引きにも聞こえた。


 出発の朝、彼は報告端末を手渡しながら短く言った。


 「気をつけて。あの谷は予測できない。……けれど、君なら何か見つけるかもしれないと思った」


 それは評価でもあり、放任でもあった。アイリスはうなずきながらも、胸の奥にわずかな違和感を残していた。


 誰かと一緒に調査へ出ることはほとんどない。植物の反応が変わるという理由で、単独任務を好むと自分で言ってきたのも事実だったけれど——ときどき、それは“選ばれない理由”になっているようにも思えた。


 谷に近づくにつれ、足音が霧に吸い込まれていくような錯覚を覚える。自分の存在が輪郭を失っていくような感覚。だが、それは決して嫌ではなかった。


 霧は、肌にやわらかく貼りつく。湿った布をかけられているような感覚。ときおり、植物の葉がこすれる音が遠くから届く。だが、それが右からか左からかさえ、判然としない。


 時間の流れすら曖昧だった。歩いているのか、ただ霧の中に立ち尽くしているのかさえ、はっきりしない。


 それでも、アイリスは不安を感じていなかった。むしろ、こういう環境のほうが、植物の“声”をよく聞ける気がした。


 こうして霧の中にいると、自分自身が植物の一部になったような気がする。言葉は不要で、ただ根を伸ばして、風や土と交感するだけの存在。そんなふうに在れたなら——。


 谷の中央部が見えてきたとき、それはそこにあった。


 白い濃霧のなかに、ぽつんと浮かぶ鮮やかな緑。《ルタ=エスト》。標本写真よりもずっと小さく、けれど確かに、葉の縁に赤い縞模様がある。


 思わず歩みを速めてしまう。斜面の傾斜に注意を払いながら、彼女は植物に近づいた。


 ——やっと、会えた。


 荷を下ろし、膝をつく。小さな葉の先端に、指先がそっと触れた。

 その瞬間、ほんの一瞬だけ、“なにか”が心に触れたような気がした。


 それは音でも言葉でもなかった。ただ、静かな流れのような。水の底で、遠い記憶が手を振っているような。


 ——なに?


 その問いが形になるより早く、足元でごそりと何かが崩れた。


 「——っ!」


 声を上げる暇もなかった。土の感触が一気に消え、彼女の身体は霧の中へと吸い込まれていった。


 重力の方向が分からない。何秒も、何十秒も落ちているような感覚。


 でも、不思議と怖くはなかった。霧の底に何があるのか、自分は知っている気がした。


 そのまま、意識が、ふっと遠のいていった。

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