第2話「風を孕む苗床」
午後の空には、うすく綻んだ雲がひとすじ、ゆっくりと流れていた。
わたしとコリナは、南斜面の観測エリアへ向かっていた。朝、わたしが最初に異常成長を確認した丘から、ひとつ尾根を越えた場所だ。
「このへんでも似た報告があったって。まだ確証はないけど、いくつかの地点で……重なるものがあるみたい」
そう言いながら、コリナは記録端末を見せてくれる。そこには、数本の植物の成長ログと、現地担当者の簡単なコメントが並んでいた。
同じように、「予定よりも早く発芽」「形態異常なし」「水分吸収量が高い」……そんな記述がいくつも重なっていた。
「どれも、決定的ではないけれどね。でも」
彼女が言葉を切って、わたしの横顔をちらと見る。
「なんとなく、“始まってる”って感じがするんだ。……アイリスも、そう思ってるんでしょう?」
頷いた。言葉にするにはまだ輪郭があいまいだったけれど、朝に感じたあの気配が、いまもわたしの中に残っていた。
ふたりで歩く足元には、細い草が風にそよいでいた。霧が引いたあとの地表はしっとりと湿り、ところどころに陽の光が染みている。
どこかで鳥の声がひとつ鳴き、遠くで風が低く揺れる音がした。季節の境目のような静けさが、森の奥にまで漂っていた。
「こうやって歩いてるとさ……なんていうか、“まだ名づけられてないもの”が残ってるって、感じない?」
唐突にコリナがそう言った。わたしは驚きながらも、少し笑った。
「……感じるかも。言葉より先に、何かが生きてるっていうか」
「うん。そう、それ」
彼女はそう言って笑い、また前を向いた。その表情が、いつもより少しだけ穏やかに見えた。
観測エリアに着くと、コリナが先にひとつの株を見つけて、しゃがみこんだ。
わたしも隣に腰を下ろし、そっと手をのばす。細い茎の先端に、小さく開いた葉があった。
指先が触れた瞬間、胸の奥にやわらかな波がひろがった。
それは、“彼女”の気配とは違っていた。もっと曖昧で、かすれていて、でもどこか人の温度をもっていた。
見知らぬ誰かが、はじめてこの星に降り立ったときの、微かなまなざし。
遠くに見えた地平線。風の音。土に足を置いたときの、最初の重さ。
言葉にならない「ここに居てもいいのかもしれない」という気配だけが、残されていた。
そっと手を離すと、コリナがわたしの顔をじっと見ていた。
「……見えた?」
「うん。たぶん、誰かの記憶。すごく小さな、でも……やさしいものだった」
コリナは、なにも言わずに頷いた。
わたしの語彙が足りないとき、彼女はいつもそれを咎めずに、ただ受け取ってくれる。
そのまなざしに触れると、言葉では届かないものがあることを、かえって強く思い出す。
風がふたりのあいだを通りすぎた。細い苗床の草が、静かに揺れていた。
「こんなふうに、残っていくんだね。誰かの記憶が」
「うん……。でも、それが“全部”じゃないんだと思う。記録じゃなくて……届くもの」
わたしの声は小さかったけれど、コリナには届いたようだった。
この星が少しずつ変わっていく。
その変化は、風や草のように、人の手ではつかめないところから、静かに育っている気がした。




