第1話「静かな変化の兆し」
朝の空気は、まだ白い靄に包まれていた。
わたしはそのなかを、静かに歩いていた。呼吸のたびに、肺の奥へと冷たい湿気が染みこんでいく。薄く差し込む陽の光さえ、まだ地表までは届かず、音のない世界が丘を覆っていた。
昨日記録した観測ポイントへ向かう途中、足元の土がわずかに柔らかくなっていることに気づく。夜のあいだに降った霧が、地面に沁みこんだのだろう。靴底から伝わる冷えは、どこか懐かしいものに似ていた。
斜面をのぼる途中、わたしはふと足を止める。視界の端に、光の粒がひとつ、朝靄のなかで瞬いた気がした。目を凝らすと、そこに——
ひときわ鮮やかに葉を広げた株があった。
記録では、発芽まであと三日。成長も緩慢なはずだったその植物が、今は三段階ほど先まで進んだかたちで展葉していた。葉脈のひとつひとつに、露をまとった光が宿っている。色は深く、厚みがあり、重力に逆らわず、ゆっくりと朝に向かって開いていた。
わたしは無意識に息をのんだ。
異常——そのはずだった。けれど同時に、それはまるで、
「正しい時が来た」とでも言うような、静かな確信をまとっていた。
——この植物のなかに、なにかが宿っている。
わたしはしゃがみこみ、そっと指先でその葉に触れる。
霧の水気が肌に沁み、ひやりとした感触が走る。だがその奥に、さらに微かな気配がある気がした。
やさしい感情の粒が、わたしの胸の奥でふるえる。
それは言葉にはならないが、確かに知っている感覚。
“彼女”の存在が、ここに触れている。
「……また、来たの?」
呟いた声は、霧に包まれてすぐに消えた。返事はない。ただ、風がひとすじ、葉を揺らした。露の雫が一滴、葉先から落ちる音がした。
あの夜空の構造体が崩れたあと、静かな余韻がすべてを包んでいた。
それが「終わり」ではなかったことを、わたしは知っている。
だからこそ、いま目の前のこの植物が——その続きを、たしかに芽吹かせていることにも、気づけた。
わたしは端末を取り出し、成長異常としてデータを記録する。数値だけでは説明しきれないなにかがあると、いまは確かに思える。操作を終えても、しばらくその場を離れられなかった。
コリナに、一番に伝えよう。
きっと耳を澄ませてくれる。声ではなく、気配のほうに。
そう思えた自分に、ふと気づく。
そして、それが少しだけ、嬉しかった。
——その日の午後、わたしはフィールドの記録を報告したあと、コリナの作業小屋を訪ねた。
「ちょっとだけ、時間いい?」
声をかけると、いつものように髪を結い上げた横顔が、ゆるやかに振り向いた。
彼女の瞳は、わたしのなかにあるまだ言葉にならない思いに、すでに気づいていたかのようだった。
「うん。行こうか、丘のほう?」
わたしは小さく頷いた。
それだけで、すこし心が軽くなる。
彼女と一緒にあの植物を見にいく。それだけのことなのに、なぜか、この星がすこしだけちがって見えるような気がした。




