第2話「共鳴」
温室の奥で、アイリスは小さな葉をそっと撫でた。昨日から何度も観察している、あの微かな揺れを見せた群生植物。柔らかな葉は指先に冷たく、しかしその下には、何かが脈打っているような気配があった。
触れた瞬間、視界の奥で微細な“ざわめき”が立ち上がる。まるで、水面の底から小さな記憶の粒が浮かび上がるように、脈絡のない映像が次々に現れては消えていく。
光の柱。岩の裂け目。誰かが手を伸ばす。名前のない空。
アイリスは目を見開いた。息を吸い込む暇もないまま、次の波が押し寄せてくる。意識の端で、遠くから名を呼ばれた気がした。だが、誰の声なのかはわからなかった。
「……アイリス?」
ふいに現実の音が戻ってくる。振り返ると、少し離れた場所にコリナが立っていた。心配そうな目がこちらを見ている。
「ごめん、大丈夫……ちょっと、考えごと」
そう言いながら、アイリスはそっと葉から指を離した。だが、その余韻はまだ残っていた。まるで、触れた先に“誰か”がいたような感覚。
「さっき……何か、見えたの?」
アイリスはしばらく迷ったが、やがてゆっくりと頷いた。
「はっきりとは言えないけど……何かが流れ込んでくるの。景色とか、感覚とか……知らないはずの記憶みたいなもの」
コリナは驚いたように目を見開いたあと、静かに視線を植物へと落とした。「それって、“彼女”のものかもしれないって……思う?」
「うん。そうだと思う。だって、似てるの。“彼女”に出会った時に感じたことと」
コリナは、少しだけ躊躇いながらもそばに歩み寄った。そして、そっとアイリスの手を取る。その手は冷えていたが、震えてはいなかった。静かに、自分の意思でここに立っているような、そんな手だった。
「あなたが感じたことは、あなたにしか見えないものかもしれない。でも……それが確かに存在するのなら、私もちゃんと受け止めたい」
アイリスは少しだけ目を伏せてから、コリナの方を見た。「ありがとう。コリナがそう言ってくれると、少しだけ安心する」
そのとき、不意に温室の光が一瞬だけ落ちた。雲が陽を遮ったのかと思ったが、空調や照明には変化がない。不思議に思って見上げると、天井のガラスの向こうに、淡く輪郭を揺らめかせる“何か”があった。
ゆらり、と空気が歪んだ気がした。そこに、確かに“彼女”の輪郭が浮かんでいた。完全な姿ではない。ただ、光と空気の重なりの中で、確かに“存在している”と感じられる気配。
アイリスは息をのんだ。コリナが隣で見上げるが、彼女には見えていないようだった。
「……ねえ、いま……誰かがいたような……」
「私は何も……でも、何かが違うって感じはした」
コリナの声がかすかに震えていた。目に見えない何かに触れてしまったような、そんな感覚だけが残ったのかもしれない。
アイリスは視線をその場に留めたまま、小さく呟く。「あれは、“彼女”だった。たぶん、植物と共鳴して……姿を見せようとしてる」
その言葉に、コリナは何も言わず、再びアイリスの手を握った。その手はしっかりと温かく、まるで地に足をつけるように、アイリスの意識を現実へ引き戻してくれた。
異変はわずか数秒だった。けれど、そこに確かにあった。それは記録も、再現もできない、ただ“その瞬間に生きた”という証だった。
二人はしばらく黙って立ち尽くした。ガラスの向こう、淡く揺れる空の気配が、まだそこに残っている気がした。そして、もうすぐそこにある何かが、ゆっくりと扉を開けようとしているように感じられた。




