第1話「揺らぐ空」
その晩、空気は奇妙な静けさを孕んでいた。霧はいつもより早く引き、夜の帳が町をすっぽりと包み込んでいた。アイリスはベランダに出て、夜空を見上げる。星は確かにあった。けれど、その光が、まるで水面に浮かぶ粒のように揺れている。目を凝らせば凝らすほど、星々の位置が微かに揺らぎ、わずかなズレを繰り返しているように見える。
彼女は深呼吸し、胸の内に押し寄せるざわめきを宥めようとした。これは錯覚ではない。そう確信しつつも、その“異常”はあまりに静かで、声を上げることさえためらわれる。誰にも伝わらない種類の現象。だからこそ、彼女はそれを心に焼きつけようとした。
翌日、アイリスはラボで記録用の端末に星の挙動を書き留めた。星の揺らぎ、感覚の時間差、空の圧縮感。どれも数値にはできない。ただ、「感じた」という事実だけを、言葉で編むしかなかった。
「また空を見てたの?」
声の主はコリナだった。アイリスが顔を上げると、彼女は端末のスクリーンをちらりと見て、椅子を引いて隣に腰掛けた。
「うん。昨日の夜、少し変だったんだ」
「変って、どんな?」
「星が……揺れてた気がするの。ほら、水面に光が落ちて、ゆらゆら揺れるみたいな。あれに似てる。でも、空気は静かだったし、目の錯覚かもしれないけど……」
アイリスはそこまで言って、ことばを濁した。口に出した瞬間、全てが曖昧になってしまうような気がして。
コリナはしばらく考えるように黙り込んでいた。けれど、その沈黙には拒絶も否定もなかった。
「私には見えなかったけど……あなたがそう感じたのなら、それ自体がきっと“大事なこと”なんだと思う」
その一言に、アイリスはふっと息を吐いた。
「ありがとう、コリナ。ほんとうに……」
コリナは少しだけ目を伏せた後、ゆっくりとアイリスの肩に手を置いた。その手のぬくもりが、何も言わずに彼女の気持ちを伝えてくれるようだった。
「私には何も見えなくても……アイリスがそう感じたってこと、それ自体がきっと“大事なこと”なんだと思う」
その言葉を聞いたアイリスは、胸の奥がほんの少しだけ温かくなったような気がした。コリナはそのまま、静かにアイリスを抱き寄せた。最初は戸惑いがあったが、すぐにアイリスはその腕の中で、何とも言えない安堵を感じ始める。言葉にできない思いが、ただそこにあった。
「無理に話さなくてもいいよ。私は、あなたが感じたことを信じるから」
アイリスはほんの少しだけ目を閉じ、コリナのぬくもりに身を預けた。今は言葉が必要ではない。彼女の中に広がる不安や震えを、コリナはただ受け入れてくれる。そう感じるだけで、少しだけ楽になった気がした。
その日の午後、調査区画の温室で、小型の群生植物を観察していたときのこと。風はなく、室内の空調も静かだったのに、ある一群の葉が、一斉に微かに揺れた。空気の動きとは無関係な、なにか内部の刺激に応じたような反応。彼女は思わずその場に立ち止まる。
「……共鳴?」
思わず漏れた声は誰にも届かない。けれど、彼女には確かに、揺れのリズムが“空のゆらぎ”と重なっている気がした。それは音ではなく、熱でもなく、ただの風のいたずらでもない。植物たちが、なにかを感じ取っているように見えた。
その夜、再びベランダに立つ。今度は、星がほんのわずかに、配置を変えながら瞬いているのが見えた。ほんの少し、ほんのわずか。だが確かに、世界の端が歪みはじめている。自分の内側と、外の空が、ひとつの律動で結ばれつつある。
アイリスは目を閉じて、手すりにそっと触れた。そこには誰の気配もない。ただ、遠い場所から届く何かが、確かに胸の奥を叩いていた。
夜は深まり、空は揺れたまま、沈黙を守っていた。




