第5話「空の端に触れる」
午後のラボは、機器のわずかな振動音と、換気装置の低い唸りだけが響いていた。アイリスは顕微鏡のレンズを覗きながら、ふと視界の端に違和感を覚えた。空気がゆらいでいる。光が、少しだけ捻れて見える。それは疲れによる錯覚とも思えたが、彼女の中で何かが警鐘のように震えていた。
視線を逸らした瞬間、脳裏に強く映像が走る。風の吹き抜ける音。硬質な石の地面。水を蓄えた白い葉。どれも彼女が以前見た記憶の断片だったが、今回は違った。映像はぼやけず、現実の空間に重なって見えた。記憶の中に沈むのではなく、目の前にそれが“現れて”いた。
アイリスはゆっくりと椅子から立ち上がり、ラボの隅に置かれた鉢植えへと歩いた。その中の一つが、朝にはなかった位置にわずかに傾いている。誰かがそこに触れたような跡。だが足音は聞いていないし、記録にもない。彼女は手帳を取り出し、震えを抑えながら書きつけた。「記憶が、現実の空間に流れ込んでいる」
その夜、アイリスはコリナを誘い、居住区のベランダに出た。霧は薄く、星が静かに瞬いていた。二人並んで空を見上げる。言葉は交わさずとも、寄り添う気配がそこにあった。
やがてアイリスが囁くように言った。「ねえ……あの星、動いてるように見えない?」
コリナは少し首をかしげた。「……私には、ただの星に見えるよ」
アイリスは頷いた。「そう、だよね。ごめん。気のせいかもしれない」
しばらく沈黙が流れた。だがその沈黙は、拒絶ではなかった。
「でも、アイリスがそう感じたなら、きっと何かあるんだと思う」コリナはぽつりと、柔らかく言った。「私には見えなくても、あなたが見えていることを、信じたい」
その言葉に、アイリスは小さく笑った。心の奥に、あたたかさと同時に、ほのかな寂しさが広がった。
空には、ほんのわずかな歪みがあった。星が瞬くたび、幾何学的な構造の気配が浮かんでは消える。見る者によって姿を変える、言葉にならない“意味”が空の奥に広がっている気がした。
アイリスの中で、“彼女”の視点が広がりはじめている。これは、伝えられた記憶の続きではない。これから見えるもの、これから始まること。そう感じていた。
翌朝、彼女は誰にもそのことを話さなかった。言葉にしてしまえば、なにかが壊れてしまうような気がしたからだ。ただ一つ、記録だけは残した。
「空が、少しだけ、開いた気がした」
その言葉をページの隅に書き留めたとき、アイリスの中に確かな実感が芽生えていた。これまで感じてきたすべては、偶然ではない。植物、記憶、彼女、そして空。そのすべてが、ゆっくりと繋がり始めている──。




