第4話「読み解く者」
昼下がりの静けさの中、アイリスは自室の書斎で日誌を開いていた。ページの隙間から立ち上る乾いた紙の香りに、記憶の風が混ざってくるような気がした。指先で何度もめくった跡のある紙には、過去の自分が書いた言葉が、まだ新しい熱を残している。空の色、山の稜線、乾いた風の音。書き留めているときは夢中だったが、あらためて読み返すと、そこにいくつもの“繰り返し”があることに気づいた。
同じ山の形。同じ空の光。同じ風の流れ。微妙な違いを残しながら、ある種の規則性をもって記憶があらわれている。それは偶然ではない。意識の流れでもなく、ただの印象の再生でもない。
「これは……構造になってる」
アイリスは呟いた。単なる断片の寄せ集めではない。記憶というよりも、誰かが語ろうとしている“物語”だ。順序もなく、文字もないけれど、確かに伝えようとする意志がある。その気づきは、静かな驚きとともに胸の内側に降り積もった。
夕方、ラボに戻ったアイリスは、ちょうど一息ついていた同僚たちに声をかけてみた。分析作業の合間の、雑談混じりの空気。意識して選んだ、慎重なタイミングだった。
「ねえ、最近の植物の記録……ただの成分分析だけじゃ、説明できない気がするの。たとえば、記憶みたいな……もっと感覚的なものが、伝わってくるって感じない?」
ロシュが首を傾げて笑う。「またそういう詩的なこと言って。アイリスって、前からそういうの得意だよね」
「幻覚とか見えるようになったら面白いのに」と別のスタッフが冗談めかして言う。「でも、揮発成分のデータ見たら、ただの芳香族炭化水素だったよ」
「……そっか。ありがとう」
否定されたわけじゃない。けれど、言葉の芯はどこにも届かなかった。笑い声の中に立っていたアイリスは、なぜかとても遠くにいるような気がしていた。
その夜、ラボの片隅で機器の手入れをしていたコリナに声をかけた。彼女は作業を止め、軽く手を拭いてから、黙ってアイリスの顔を見る。なにかを察したような、その目に、アイリスは静かに言葉を預けた。
「たぶんね……記憶じゃなくて、物語なんだと思うの。映像や感情がただ流れてくるだけじゃない。順序も、強弱もある。伝えたいっていう流れを感じるの。うまく言えないけど、たしかに……物語になってる」
コリナはすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、目をそらさずに小さくうなずいた。
「うん。あなたが感じてることは、きっとあなたにしかわからない。でも、それって、あなただから見えるものなんだと思う」
それは理屈ではなかった。ただ、小さな光が灯るように、胸の奥でしっかりと受け止められた言葉だった。
その晩、映像はまた訪れた。乾いた空気のなか、ひとりの人物が佇んでいた。輪郭はまだぼやけている。それでもそこには、確かな“視線”があった。風の中に立ち、遠くを見つめるようなその姿は、誰かを呼んでいるのではなく、ただ、そこに在り続けていた。
“彼女”だ。アイリスはそう思った。言葉はなくても、伝わるものがある。想いが残されている。過去と現在が交わるわずかな隙間で、記憶はゆっくりと彼女に溶け込んでいく。
朝。植物の水やりをしていたとき、ふと一つの鉢に新しい芽が出ているのを見つけた。昨日までは確かに何もなかった場所だ。湿った土の中から、透けるような淡い緑が、そっと顔をのぞかせている。
それが何の兆しなのか、言葉にはできない。でも、アイリスはその芽をしばらく見つめ、そっと日誌の最後のページを開いた。そして、迷いなく一文を書き足した。
「わたしは、読む者である」




