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霧の奥、星の手前  作者: 星☆
第一章「霧の奥、芽吹きの前夜」
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第1話「1ミリの返事」

朝の霧は、今日も濃かった。


アイリスは防湿マスクをつけながら、ゆっくりと外気へのドアを開けた。

外は、白い。音も色も奪われたように、基地の周囲は乳白色の霧で満たされている。


重い扉が背後で閉まる音を聞きながら、アイリスは呼吸を整えた。

朝の気温はあまり変わらないが、霧は日によって匂いが違う。

今日は、ほんの少し、甘いような土の匂いがした。


「記録、二〇四号エリア、第四週目。双葉、変化なし」


携帯端末に音声入力をしながら、アイリスは歩き出す。

その歩き方は慣れているけれど、どこか丁寧だった。


しばらくして戻った基地では、いつものように朝食の準備が進んでいた。

テーブルの端でコリナが言った。


「ねえ、アイリス。地球って、朝焼けって見えたんだっけ?」


アイリスは少しだけ考えてから答えた。


「見たことないから、分からない。でも、記録では霧はなかったらしいよ」


「そっか。じゃあ、空はもっと、はっきりしてたんだろうね」


会話はそれだけで終わった。けれど、その短い言葉の端々に、

どこにも属さない世代の、柔らかな寂しさが滲んでいた。


アイリスはいつものように調査に出かけた。

外気はまだ霧に包まれ、視界は三歩先までしか見えない。

それでも、彼女はこの白の中に安心感を覚えていた。


かつて地割れが起きた場所に、小道がある。

そこには銀色の葉を持つ草が一株、ぽつんと生えている。


「おはよう、スイ」


今日も変化はない。だが、その変わらなさこそが大切だ。

この星では、変わらないこともまた、記録の対象になる。


その夜、アイリスは眠れずに外に出た。基地の明かりを背に、少しだけ歩く。

靴の底が乾いた地面をかすかに鳴らす音が、夜の静けさに溶けていく。


空を見上げると、霧が、ゆっくりと晴れていた。

風も音もなく、世界がそっと息を吐くように、白の帳が静かにほどけていく。

その向こうにあったのは――言葉にできないほど美しい、夜の空。


深い紺に、紫が混じり、その中を淡い緑や銀の光が静かに流れていく。

あるものは点のように、あるものは帯のように。


アイリスは、この時間が好きだった。

昼間の白い霧に隠れていたすべてが、夜になるとそっと姿を現す。

音のない星の囁きが、自分の胸の奥にまで届く気がする。


「……きれい」


その言葉が、自分の唇からこぼれたことに、アイリスは少し驚いた。

そしてそのとき、背後の霧の向こうで――何かが、静かに揺れた。


振り返っても、そこには何も見えなかった。

けれど、確かに“気配”があった。


誰かが、こちらを見ていたような。

あるいは、誰かが、同じ空を見上げていたような。


やがて、霧がゆっくりと戻ってきた。

星々はひとつずつ、その輝きを白の帳に飲まれていく。

夜は、静かに終わる。

この星の夜は、音を立てない。まるで、見られていたことを恥じるように。


アイリスは一度だけ、もう一度背後を振り返った。

何もない霧の向こうに、何かが佇んでいるような気がして――

けれど、見えないものは、見えないままだった。


翌朝、彼女は記録室で端末を開き、昨夜の観察を文章に起こしていた。

仕事としての調査報告ではなく、あくまで個人的な日記。

植物の記録に加えて、空の色、風の匂い、霧の動き――

数字ではなく、感覚で残す記録が、アイリスは好きだった。


『…霧が晴れた夜、星々が言葉のように並んでいた。

 誰かと同じものを見ていた気がした。たとえそれが気のせいでも、たぶん大事なこと。』


入力を終えると、端末がやわらかな音を立てて保存を告げた。

それを聞いたとき、ふと、胸の奥にかすかな違和感が走る。


午前の調査に出たとき、アイリスはその理由に気づくことになる。


銀の葉を持つ「スイ」が――ほんのわずか、伸びていたのだ。


昨日とまったく同じ地点、同じ姿勢で観察したはずのそれが、

ごくごくかすかに、けれど確かに、葉の先が上を向いていた。


定規で測れば1ミリもない。だが、アイリスには分かる。

それは、この星で何かが動き始めた証だ。


彼女は、空を見上げた。


朝の霧の向こうに、何も見えないのを知っていながら。


――もしかしたら。


そう思ってしまうことに、少しだけ戸惑いながら。


基地に戻る帰り道、アイリスはふと、昔の夢を思い出していた。

まだ移民船の中で過ごしていた頃、人工の夜を模した部屋で寝転びながら、

「いつか、本当の空を見てみたい」と誰かが言った。


そのとき、アイリスは答えられなかった。

自分にとって“本当”という言葉が、あまりにも遠く感じたから。


今、自分はその空の下に立っている。

けれど、ここが自分の居場所だと、心の底から思えたことはまだない。


足元の土を見つめながら、アイリスはゆっくりと息を吐いた。

この星は美しい。でも、それだけでは足りない。


生きている限り、誰かは、どこかに“属したい”と願ってしまう。


――私は、この星に根を張れるのだろうか。


そんな思いがふとよぎって、でもすぐに胸の奥にしまい込む。

代わりに、スイの芽がほんのわずかでも伸びていたことを思い出して、小さく頷いた。


きっと、何かが始まっている。


まだそれが何かはわからない。

けれど、それを知ることができたなら――

この星が、少しだけ近づくような気がする。


その夜、アイリスはまた眠れなかった。


部屋の明かりを消して、壁にもたれ、薄い毛布を膝にかけて目を閉じる。

けれど、瞼の裏には朝の霧と、あの小さな銀の葉が浮かんで離れない。


“私たちはこの星に根づけるのか”

自分の問いに、誰かが答えてくれるわけではない。

けれど、それでも、今日のあの1ミリの変化が、何かの返事のように感じられた。


明かりを点けずに立ち上がり、記録用端末を手に取る。

また誰にも見られない、個人的な記録を一行だけ追加した。


『もしかしたら、この星のどこかに“答え”があるのかもしれない。』


保存ボタンを押した指先が、わずかに震えていた。


そのころ、霧の奥のどこかで。

誰かが静かに、同じ空を見上げていた。


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