第3話「忘れられた風」
今朝のラボは、湿った空気と静かな気配に包まれていた。植物から揮発する微細な粒子が、光の筋の中で淡く揺れている。アイリスは白い手袋をはめ、慎重に試料を持ち上げると、触れた葉の感触を確認するようにそっと撫でた。表面はひんやりとしていて、だが、ただの冷たさではなかった。触れた瞬間、かすかな“ひらめき”のようなものが心の奥をかすめた。
映像は来なかった。しかし、風の音だけが届いた。どこか遠く、知らない場所を吹き抜ける風。乾いた大地を横切り、砂の粒が舞うような、懐かしいざらつきを含んだ風だった。
アイリスは手を止め、記録ノートを取り出す。書きかけのページに、昨日までに見た映像の断片が並んでいた。空の色、山の稜線、風の音、声にならない呼びかけ。それらは繰り返し現れ、同じようでいて、どこか微妙に異なっていた。彼女はその違いを探るように、言葉を選んで書き足していく。
「また、風……。あの風は、この星のものじゃない」
思わず声に出してつぶやいたとき、背後から足音が聞こえた。コリナだった。彼女は新しいカップを手に、少しだけ首をかしげながら近づいてきた。
「また、植物と話してたの?」
「うん、まあ……そんな感じ」
アイリスは曖昧に笑って、手帳を閉じた。コリナはその様子にあえて深入りはせず、隣に腰を下ろす。
「最近、なんか変わったよね。前より、集中してるっていうか……なにか、見えてるの?」
アイリスは言葉を探した。どう言えばいいのか、自分でもまだはっきりしない。ただ、これが偶然ではないことだけはわかっていた。
「たぶん、植物の中に……誰かの記憶がある。それを感じ取ってる」
「……記憶?」
「うん。映像とか、音とか。風の感じ。誰かの、心の中をなぞってるみたいな」
コリナは少し黙ってから、静かに言った。「じゃあ、それって……“彼女”の?」
「わからない。でも、そうだと思う」
アイリスは目を伏せる。答えが出せないまま、それでも確信に近いものが胸の奥で脈打っていた。
夜。居住区の書斎で、彼女はまた筆記具を手にしていた。日誌には、すでに十数ページにわたる記録が綴られている。読み返すと、最初のころは戸惑いが多かったが、いまは語彙が変わってきていることに気づく。「伝わった」や「感じた」といった言葉が、繰り返されている。
記録のためではなく、受け取るために書いている。アイリスはそう気づく。
ふと、静かな揺れのように、自分自身の記憶が浮かんできた。まだ小さかった頃、移民船の保育区で見た、模擬空の映像。疑似的に生成された風が、子どもたちの髪を撫でていた。あのとき感じた風と、いま記憶の中で聞こえる風が、どこかで重なっている。
その一致は、偶然とは思えなかった。
机の上には、小さな鉢植え。今日の調査で採取した、まだ名前のついていない植物だ。アイリスはそっと手を伸ばし、葉に触れる。
——暗い風景の中に、また、あの風が吹いていた。だが今回は、風の中に誰かの気配があった。遠くで佇む影。見えないはずなのに、そこに確かに存在している。
光の届かないその風の中で、アイリスはゆっくりと目を閉じた。
「これは、贈りもの……」
声に出した瞬間、胸の奥に柔らかな波が広がった。それは恐れではなかった。理解でもない。ただ、誰かの思いを受け取ったという、静かな確信だった。




