第1話「見えない輪郭」
昼下がりの光が、ラボの窓から斜めに差し込んでいた。窓の外では藍色の低木が風に揺れ、影がガラス越しに揺れている。アイリスは研究用のジャケットの袖をまくり、顕微鏡の前に座って静かに息を吸った。スライドガラスの上には、灰白の谷で採取した小さな多肉植物。その葉は光を透過し、内部に淡い層を抱えており、構造が角度によって変化して見える。細胞壁は複層で、内層の一部が周期的に脈動しているようだった。意図を持って何かを伝えているかのようなその動きに、彼女はわずかに眉をひそめた。
香気の抽出フラスコからは、淡い桃色の揮発成分が立ち上っている。香りはやや甘く、だがそれは典型的な花の香りではなく、遠い昔の記憶に触れるような懐かしさと、少しの痛みを含んでいた。アイリスは端末を操作しながら、香りを吸いすぎないように気をつける。構造のスケッチを保存し、観察記録を入力しながら、彼女は思わず口に出していた。
「この模様……網目? それとも、脈絡のような」
細胞の構造は幾何学的にも有機的にも見える。瞬間的にそれは回路のようにも感じられ、植物が生物的信号を持っているような錯覚を抱かせた。ふと、背後から足音が近づく。
「まだやってたんだ?」
コリナだった。保温ポットとカップを二つ持って現れた彼女は、慣れた手つきで机の端を片づけ、アイリスの隣に立つ。
「お茶、持ってきたよ。熱いうちに飲まないと、ね」
「ありがとう。今ちょうど面白い構造を見つけたところ」
アイリスは微笑んでカップを受け取るが、視線は植物から離れない。コリナはしばらくその様子を見てから、ぽつりと訊ねた。
「それ、何かに似てる気がしない? なんか、昔見たような」
「……そう。夢に出てきたような、でも、わたしのじゃない気がするの。誰かの記憶の中にある風景……そんな感じ」
コリナは少しだけ口元を引き結んだが、それ以上は何も言わず、机にポットを置いて静かにラボを出ていった。残されたアイリスは、静かな研究室の中でわずかに息を吐き、香りの消えた空気の中で植物を見つめ続ける。
夜、自室の窓辺には例の植物が置かれていた。濃い霧の向こうに星の光がかすかに揺れ、ランプの明かりが机の上に静かに広がっていた。アイリスは椅子に座り、葉に指先を添える。冷たい感触が皮膚を伝い、やがて脳の奥に沈んでいく。
——風の音がした。空は赤褐色に染まり、薄い雲が帯のように流れていた。地平の向こうには巨大な山の稜線。視界はぶれず、異様に鮮明だった。誰かの肩越しに見えるその風景には、言葉にならない想いが乗っていた。誰かの名を呼ぶ声。それは言語ではなく、情動の塊のような音。
その瞬間、胸が締めつけられた。振り返ろうとした気配と共に景色がほどけてゆき、すべてが暗転する。アイリスは息を呑み、はっとして目を開いた。部屋の灯りは変わらず、ただ椅子の背に自分が深くもたれているだけだった。
自分の記憶ではない。けれど、誰かの記憶として残っていたもの。それが植物を媒介にして、彼女の中に流れ込んできた。
アイリスは日誌を取り出し、震える指でペンを走らせる。風景、感情、色彩、声。できるかぎり詳細に記そうとする。なぜそれが起きたのか、どうして自分だけが感じ取れたのかはわからない。ただ一つ、確かなのは——あの植物は、記憶を抱いていた。
それが、“彼女”のものであるかもしれないという直感が、アイリスの胸の奥を揺らしていた。




