第1話「静けさの引力」
霧が晴れた夜のことだった。
星がひとつひとつ、その輪郭を取り戻していくなかで、空の奥に“形のようなもの”が浮かんだ——気がした。
それは一瞬だった。
星でも、雲でもない。むしろ、そのどちらとも言えない“奥行き”のようなもの。
まるで空の裏側に、べつの空が顔を覗かせたかのような、不思議な歪み。
音がひとつ消えたような気がして、アイリスはその場で立ち尽くしていた。
けれど、誰に指差すでもなく、記録にも残らず、その“何か”はすぐに霧と星のざわめきに紛れていった。
翌朝になっても、その感覚は消えなかった。
熱を持った夢のように、ひっそりと内側で燻っている。
目に見えないけれど、たしかに手のひらに落ちていた何かのように、心の奥に触れて離れない。
アイリスは植物棟のベンチに腰を下ろしながら、端末に記録された観測データを何度もなぞっていた。
窓の外には朝の霧がまだ漂っており、太陽の光をすり抜けた光が、温室の屋根を淡く照らしている。
「やっぱり、ちょっと変だったわよね。夜空の反射値が数秒だけ、ほら……ここ。」
コリナが隣に腰かけ、端末を指差した。画面には赤い線がぴくりと跳ね上がる瞬間が記録されている。
異常値、と言うにはあまりに小さな揺らぎ。でも、アイリスにはその“さざ波”が、とても大きな前触れのように思えた。
「気のせいって言うには、ちょっと座りが悪いね」と、コリナが眉をひそめる。
「たとえばさ、上空で空気密度が局所的に変動したとか? 惑星の電離層が一時的に偏ったとか……いちおう仮説はいくつか立てられるけど」
「でも、それじゃ説明しきれないんだよね」
「うん、たぶんね」
アイリスは静かに頷いた。
手の中に残る違和感。それは数値で説明できるような種類のものじゃなかった。
「……わたし、また“灰白の谷”に行ってみようと思う」
コリナが目を細める。
「この前、“彼女”に出会ったって言ってた、あの谷……?」
「うん。たぶん、何かが……残ってる気がするの。
空に現れたものも、あそこに関係してる気がする。感覚的な話だけど……」
言いながら、自分でも不思議だった。
科学者としての理屈ではなく、どこか“胸の奥の重力”のようなもので引かれている。
そこに行かなくてはならないという、言葉にならない確信。
コリナは黙ってアイリスの顔を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「……わかった。気をつけて。ログは残しておいてね。もし何かあったら、絶対に」
「うん。ありがとう」
ふたりの間に、しばし静かな間が流れる。
温室の葉がわずかに揺れて、透明な光が床に模様を描いた。
静かに立ち上がると、アイリスは背負子に必要な器具を詰め直した。
植物採取用のケース、記録端末、非常用の信号弾。
手はいつものように正確に動いているのに、心はすでに谷底を歩いていた。
前に出会ったあの場面が、まるで夢のなかの出来事だったかのように思える。
けれど、彼女の気配だけは、胸の奥に確かに残っていた。
あれが現実だったのか、それとも幻だったのか。
どちらにしても、いまのわたしは——もう一度、彼女に会いたいと思っている。
霧の向こうには、まだ知らない気配が待っている。
風のない朝の中、そんな想いだけが、胸の奥でそっと灯っていた。




