第6話「また空を見に行こう」
夜の空気は、少しやわらかくなっていた。
それは温度の問題ではない。肌に触れるものでもなく、どこか胸の奥に染みこむような、やさしさの気配だった。
私は観測ノートの最後のページをめくり、しばらく指を止めた。
何かを書きたかった。けれど、言葉がまだ追いついてこない。筆先を宙に浮かせたまま、思考だけがゆっくりと巡っていく。
“見えたもの”と、“感じたこと”のあいだには、静かな溝がある。
星の背後に浮かぶ、網のような影──構造体。
私はあのとき、恐れるよりも先に、何か懐かしいものを見つけた気がした。
地球の記憶ではない。けれど、どこかで知っていたような気配。
それがこの星の記憶なら、私はようやくこの世界に足を踏み入れたのかもしれない。
あれがただの光の歪みだったとは、どうしても思えなかった。むしろ、誰かの手によって丁寧に“編まれた”ような、そんな印象さえある。
まるで、この星の夜が持つ記憶そのものが、あの形を取って姿を見せたかのように。
外に出ると、霧がわずかに引いていた。
風が止み、遠くの空に光がにじむ。星たちはまだ完全には姿を現していないけれど、その気配だけは、確かに空に漂っていた。
私はじっと見上げた。
静かな空。何も語られないはずの、沈黙の連なり。
けれど私は知っている。あれは沈黙ではなく、語られていないだけの言葉たちだ。
背後で足音がした。コリナだった。
「やっぱり来てたね」
彼女は私の隣に立ち、空を見上げた。
「今日の空、昨日とちょっと違う。ほら、匂いがやわらかい」
私は微笑んでうなずいた。
言葉にはしなかったが、私も同じことを感じていた。
「昨日は……ありがとう」
私がそう言うと、コリナは少し首を傾げた。
「ん? なんで?」
「なんでもない。ただ、あの話ができて、よかったなって思って」
コリナはふっと息を吐くように笑った。
「私こそ。ねえ、星って……なんで黙ってるんだろうね」
私は少し考えてから、首を振った。
星の黙っている理由を、私はずっと考えていた。
「黙ってるんじゃないよ。語られてないだけ、きっと」
しばらくふたりで、言葉を交わさずに空を見上げていた。
星たちは、遠くにあった。
でもその“遠さ”が、今は少しだけ近く感じられた。
あの網のような構造体を思い出す。あれはどこかで、私たちの目に見える距離にまで近づいてきてくれたのかもしれない。
植物の開花、空気のやわらかさ、記録に映った白い影。
それらのすべてが、点としてではなく、ひとつの線になって心の中を走っていた。
コリナがポケットから小さなライトを取り出し、ふと私の顔を見た。
「ねえ、また一緒に、観測に出ようよ。あの丘の上。今度は私も見たいなって思って」
「うん……行こう」
そう答えたとき、自分の声が思っていたよりも明るく響いていた。
コリナが先に帰ったあと、私はもう少しだけ空を見ていた。
星は増えていた。霧の切れ間から、いくつかの星が瞬いていた。
私はノートを開き、静かに書いた。
> 星はまだ語らない。
> でも私は、もう一度、空を見に行こうと思う。
その言葉を見つめて、ページをそっと閉じた。
その瞬間、胸の奥に、ほのかな温もりが灯るのを感じた。
それは確信でも予感でもない。
でも確かに、“進む”ということに、少しの意味が宿っていた。
霧の奥に何があるのか。星の手前に誰がいるのか。
答えはまだ遠い。けれど私は、歩いていける気がしていた。




