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霧の奥、星の手前  作者: 星☆
第三章「夜の星に浮かぶもの」
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第4話「見返される空」

 拠点へ戻る道すがら、私は何度も空を振り返っていた。

 けれど霧はもうすっかり戻っていて、星も影も、すべてが白に溶けていた。まるで、何もなかったかのように。


 それでも、胸の中にはまだあの“網目”が残っていた。

 目に焼きついたというより、感覚そのものが少しずつ変わってしまったような──そんな深い余韻があった。


 


 シャワーの音がいつもより長く感じられた。

 お湯の温度は変わらないはずなのに、皮膚の奥で冷たさが残っている。

 制服の袖に腕を通すとき、ふと手の甲が震えた。


 ──昨日までと、何かが違う。

 でもそれを言葉にしようとすると、するりと逃げてしまう。


 


 壁に貼られた観測スケジュールをぼんやりと眺めていると、背後から声がかかった。


 「おかえり。遅かったね」


 振り返ると、コリナがカップを両手で抱えて立っていた。

 湯気が、彼女のまつげのあたりで揺れている。


 「霧が晴れたの。……少しだけ、星が見えた」

 私はそう言いながら、彼女の顔を見た。

 すると、コリナはゆっくりと瞬きをしてから、ぽつりと口をひらいた。


 「やっぱり……そうだったんだ」

 「え?」


 「昨日の夜、部屋から空を見ようとしたの。でも、なんだか見たくなくなっちゃって。……変でしょ?」

 彼女は、照れくさそうに笑った。


 私はかぶりを振った。

 「変じゃない。……私も、昨日はずっと落ち着かなかった」


 


 ふたりで食堂に移動し、窓際の席に並んで腰を下ろす。

 テーブルにはスープとパンと、ぬるめのハーブティー。


 「ねえ、こういうのって、説明しづらいけど……空気、ちょっと変わった気がしない?」


 私は頷いた。

 「わかる。霧の中なのに、呼吸がしやすくて、胸に残る感じもやわらかかった」


 コリナが目を細める。

 「そう。軽くて、なんだか懐かしい匂いがした。……どこで感じたのかは思い出せないんだけど」


 私は、その言葉に少し驚いた。

 私も、あの夜の霧の中で似たようなことを思っていた。

 記憶をくすぐるような匂い。遠くに置いてきたはずの何かが、そっと触れてくるような。


 


 「……星が、何か伝えようとしてる気がする。言葉じゃないけど」

 そう呟いたのは、どちらからだったか思い出せない。

 けれど、ふたりともその言葉に頷いた。


 「ねえ……昨日の夜、感じたその気配、“あのときの”と似てた?」

 コリナの声は、少しだけ沈んでいた。


 私は少し迷ってから、うなずいた。

 「……はっきりとは言えない。でも、似ていた気がする。記憶に触れられた感じがして」


 コリナはそれ以上聞こうとはしなかった。

 ただ、スープの湯気を見つめながら、小さく息を吐いた。


 「なんかね、最近よく夢を見るの。言葉にならない夢。誰かが歌ってるみたいな、でもそれが水の音みたいで」


 私は少し驚いて彼女を見た。

 それは、かつて私が見た幻とどこか似ていた。

 けれどその驚きは口にせず、私はゆっくりとコリナに向かって微笑んだ。


 「……今度、その夢のこと、もう少し聞かせて」


 「うん。いいよ」


 


 その夜、部屋に戻って観測ノートを開いた。

 書きたいことは山ほどあったのに、ペンは一行で止まった。


 ──夜空は、こちらを見ていた。


 


 私はペンを置き、ページを静かに閉じた。

 霧の奥にあるもの。星の手前に浮かぶもの。

 それが誰なのか、何なのかはまだわからない。


 けれど、こうして誰かと“見つめ返す感覚”を共有できたことが、今夜は少しだけ嬉しかった。


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