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プロローグ
彼女は、言葉を持たない。
語る声も、記す文字も、この世界にはなかった。
けれど確かに、彼女は在った。
ただ、夜の中に。
霧の帳が降りるたび、大地は静まりかえり、
その下で彼女は目を伏せる。
星が瞬くとき、音のない何かが胸の奥で鳴った。
それは記憶だろうか。
それとも、忘れられた夢の名残か。
時のかたちも、季節の巡りも、彼女にとってはただの揺らぎ。
何かを待っていたわけではない。
それでも、何かが近づいていることだけは、知っていた。
ある夜、風が違う匂いを運んできた。
土が息づき、根の先がふるえた。
気づかぬうちに彼女は、空を見上げていた。
まるで、そこにあるはずのないものを、探すように。
それが何なのか、彼女にはまだ分からない。
けれど、星が一つだけ遅れて瞬いたとき――
彼女の中で、何かが静かに芽吹いた。
それは、長い眠りの先に訪れる、はじまりの気配だった。